生糸(きいと)とは、蚕の繭から取り出す絹織物の原料となる糸である。
古代・中世にも国内生産はあったが、高級な生糸・絹織物は中国からの輸入に大きく依存していた。
江戸時代に養蚕が広がって国内生産が本格化し、1859年の開港以降は最重要の輸出品となった。
1872年設立の富岡製糸場は殖産興業を象徴する施設として日本の近代化を支えた。
生糸とは
生糸(きいと)とは、蚕(かいこ)の繭(まゆ)から取り出した糸をより合わせて作る、絹織物の原料となる糸である。
古代から中世にかけても国内で養蚕・絹生産は行われていたが、良質な生糸や絹織物の多くは中国からの輸入に頼っていた。
近世以降は国内生産が広がり、近代には日本を代表する輸出品となった。
輸入品としての生糸
室町時代の日明貿易では、生糸・絹織物が明からの主要な輸入品であった。
戦国時代の南蛮貿易でも、中国産の生糸は重要な取引品目であり、日本からの銀の輸出と組み合わされる形で取引された。
こうした輸入への依存は、国内で生糸を安定して生産できないことの裏返しでもあった。
養蚕と国内生産の広がり
江戸時代に入ると、養蚕(ようさん、蚕を飼育して繭を得ること)が各地に広がり、国内での生糸生産が本格化した。
とくに上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)や信濃国(しなののくに、現在の長野県)は、気候や土地の条件に恵まれ、養蚕・製糸の盛んな地域として発展した。
京都の西陣織(にしじんおり)をはじめとする高級絹織物の需要も、国内の生糸生産を後押しする要因となった。
開港と生糸輸出
1859年の横浜開港以降、生糸は日本から欧米へ輸出される品目の中で最も重要なものとなった。
海外での需要の高まりを受けて生糸の国内価格は大きく上昇し、国内の物価全体にも影響を及ぼした。
幕府はこうした影響を抑えるため、生糸など特定の品目を横浜へ直接送ることを制限する法令を出したが、効果は限定的であった。
生糸の輸出は、幕末の日本経済が世界市場と結びついていく大きな転機であった。
富岡製糸場と殖産興業
明治政府は、生糸の生産技術を高め、輸出をさらに拡大するため、1872年に群馬県に官営模範工場として富岡製糸場を設立した。
富岡製糸場ではフランス式の機械製糸技術が導入され、全国から集められた工女(こうじょ、工場で働く女性労働者)が技術を学んだ。
富岡製糸場は、殖産興業(しょくさんこうぎょう、政府主導で産業を育成する政策)を象徴する施設として位置づけられ、その技術は各地の民間製糸工場にも広まっていった。
2014年には、富岡製糸場と関連する養蚕・製糸の遺産群が、ユネスコの世界遺産に登録された。
日本経済における生糸の役割
明治から大正時代にかけて、生糸は長らく日本の輸出品の中で最も重要な地位を占め続けた。
生糸輸出によって得られた外貨は、機械や技術の輸入、産業設備の整備などに用いられ、日本の近代化を支える資金源となった。
製糸業は、紡績業とならんで、日本の産業革命を支えた軽工業の柱の一つであった。
歴史的意義
生糸の歴史的意義は、中世には輸入に頼っていた品目が、近世の養蚕の広がりを経て、近代には日本を代表する輸出産業へと成長した点にある。
開港後の生糸輸出と企業勃興期の紡績業は、ともに日本の産業革命を支えた軽工業の両輪であった。
生糸の歴史を通して、日本の経済がどのように国内生産を発展させ、世界市場と結びついていったかを理解することができる。