郷土史から日本史に入るための入口。沖縄・九州・近畿など、土地とのつながりで記事をたどる。
琉球・沖縄返還など、沖縄の歴史と深く結びつく記事。
九州・佐賀・長崎など、西南日本から日本史をたどる。
肥前佐賀藩出身。明治新政府で大蔵卿などを歴任し財政改革を主導するが、1881年の明治十四年の政変で薩長藩閥から追放された。下野後、立憲改進党を結成し、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設。1898年に板垣退助と組んで日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織。第一次世界大戦中の1914年から1916年まで第2次大隈内閣を率い、対華二十一カ条要求などを行った。
舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子。645年、中臣鎌足と謀って乙巳の変を起こし、蘇我氏本宗家を滅ぼした。皇太子として大化改新を推進。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのち、九州北部の防衛強化と近江大津宮への遷都を進めた。668年に即位して天智天皇となり、670年に最古の全国的戸籍庚午年籍を作成。671年に崩御し、翌672年に皇位継承をめぐって壬申の乱が起きる。
倭寇とは、14世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国沿岸で略奪・密貿易・海上活動を行った集団を指す言葉である。14世紀を中心とする前期倭寇は日本列島西部の海民や武装勢力が多く、16世紀を中心とする後期倭寇は中国人密貿易商人を中心とする多国籍集団としての性格が強い。日明貿易や勘合貿易は、倭寇と公認船を区別し、東アジアの海上秩序を整えるためにも重要であった。
前期倭寇とは、14世紀から15世紀初めにかけて朝鮮半島や中国沿岸で活動した倭寇である。対馬・壱岐・松浦地方など日本列島西部の島々や沿岸部を拠点とする人々が多く、略奪的な性格が強かった。南北朝の内乱や九州北部の政治的混乱、公的貿易の不足を背景に活発化し、朝鮮王朝や明の対日政策、日明貿易・勘合貿易の制度化にも影響を与えた。
後期倭寇とは、16世紀を中心に明の沿岸部で活動した倭寇である。名前に「倭」とあるが、実態は中国人密貿易商人を中心に、日本人やポルトガル人なども加わる多国籍の武装商業集団であった。明の海禁政策、日明貿易・勘合貿易の衰退、日本銀や南蛮貿易を含む交易需要を背景に広がり、東アジアの海上交易が新しい段階へ移る過程を示している。
寧波の乱とは、1523年に明の貿易港・寧波で、日本から来た大内氏と細川氏の遣明船関係者が衝突した事件である。日明貿易・勘合貿易の利益をめぐる日本側内部の争いが明の領内で表面化したもので、明の官人が殺害されるなど大きな混乱を招いた。この事件後、明は日本船への警戒を強め、公的な日明貿易は大きく制限され、後期倭寇の広がりにもつながっていった。
中国・四国地方にゆかりのある人物や出来事。
佐藤栄作(1901〜1975年)は、第61〜63代内閣総理大臣として1964年から1972年まで2,798日にわたり政権を担い、当時としては戦後最長の連続在任記録を残した政治家である。兄は第56・57代首相の岸信介である。1965年の日韓基本条約締結、1968年の小笠原諸島返還、1972年の沖縄返還を実現し、戦後処理を進展させた。1967年には「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」の非核三原則を表明し、1974年に日本人初のノーベル平和賞を受賞した。
徳島県出身の政治家であり、戦前から衆議院議員を務め、1955年の自民党結党に合流した。金脈問題で退陣した田中角栄の後を継いで、自民党第7代総裁・第66代内閣総理大臣に就任した。「クリーン三木」を掲げてロッキード事件では捜査への政治介入をしない姿勢を貫いた。党内主流派による「三木おろし」を受け、1976年12月の総選挙敗北を機に退陣した。
島根県出身の政治家であり、1987年に派閥「経世会(竹下派)」を結成した。同年、自民党総裁・第74代内閣総理大臣に就任し、在任中の1989年1月に昭和天皇が崩御し、内閣として「平成」への改元を担った。1989年4月には消費税を導入し、地方振興策として「ふるさと創生」を進めた。しかしリクルート事件をめぐる政治不信の高まりを受けて退陣した。
灰吹法(はいふきほう)とは、鉛を用いて鉱石から銀を効率よく分離する製錬技術である。16世紀前半に朝鮮半島から伝わり、石見銀山をはじめとする鉱山の銀産出量を飛躍的に増やした。この技術革新は戦国大名の財政基盤を強め、南蛮貿易を通じた世界の銀流通にも大きな影響を与えた。
畿内・奈良・京都・大阪を中心に、古代国家と政権の動きを読む。
物部氏は、古墳時代から飛鳥時代にかけてヤマト政権の中枢にあった伴造(とものみやつこ)系の有力豪族である。軍事と祭祀の職掌を世襲し、大連(おおむらじ)として政治を主導した。6世紀後半、仏教受容の是非をめぐり蘇我氏と対立し、587年の丁未(ていび)の乱で物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子に敗れて自害、本宗家は滅亡した。以後、蘇我氏が政権の中心を占めることになる。
蘇我氏は、5〜7世紀にヤマト政権内で強大な権力を握った豪族である。仏教導入を推進することで渡来系氏族との連携を強め、物部氏を滅ぼして政権の中心を占めた。大王(天皇)家との婚姻関係を通じて皇位継承にも介入し、蘇我蝦夷・入鹿の代には大臣(おおおみ、臣姓豪族の代表として朝政を主導する役職)の枠を超えて権力を集中させた。しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足によって入鹿が暗殺される乙巳の変によって、蘇我本宗家は滅亡した。
645年6月12日(旧暦)、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや:当時の宮殿)において、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺したクーデター。翌日には中大兄方の軍勢に邸宅を包囲された父・蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡した。この事件を契機に始まる「大化改新」の起点となった。
大化改新とは、645年の乙巳の変で蘇我本宗家が滅んだことを契機に、中大兄皇子・中臣鎌足らが推進した一連の政治改革の総称である。豪族が土地・人民を私有する体制を解体し、公地公民の原則のもとで、大王(おおきみ、後の天皇)を中心とする中央集権国家への転換を目指した。646年の「改新の詔」に公地公民や地方制度・税制をめぐる方針が示され、これらは後の律令国家体制の形成につながる出発点となった。
律令国家とは、律(刑法)と令(行政法)を法的根拠として統治する中央集権的国家体制のことである。日本では7世紀後半の乙巳の変・大化改新を出発点として整備が進み、701年の大宝律令の制定によって完成した。天皇を頂点に二官八省が政務を担い、全国を国・郡・里に分けて国司が統治する仕組みは、古代国家の基本的な統治構造となった。土地・人民を原則として国家が管理する公地公民制と、それに基づく租庸調の税制が体制を支えた。
舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子。645年、中臣鎌足と謀って乙巳の変を起こし、蘇我氏本宗家を滅ぼした。皇太子として大化改新を推進。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのち、九州北部の防衛強化と近江大津宮への遷都を進めた。668年に即位して天智天皇となり、670年に最古の全国的戸籍庚午年籍を作成。671年に崩御し、翌672年に皇位継承をめぐって壬申の乱が起きる。
本名は厩戸王(うまやとのおう)。574年生まれ。用明天皇の皇子で、母方も蘇我氏の血を引く。593年、叔母にあたる推古天皇のもとで政治を補佐し、大臣の蘇我馬子と協力して政務を主導した。推古朝では603年に冠位十二階、604年に十七条憲法が定められた。607年には小野妹子を遣隋使として送り、隋に対等の姿勢を示した。仏教を篤く信仰し、法隆寺・四天王寺を建立、三経義疏を著したと伝わる。622年に死去。その子・山背大兄王は643年に蘇我入鹿に滅ぼされ、これが乙巳の変の遠因となった。
神祇祭祀をつかさどる中臣氏の出身。中大兄皇子とともに645年の乙巳の変を計画・実行し、蘇我氏本宗家を打倒した。以後は内臣(うちつおみ)として大化改新を補佐し、近江朝廷の中枢を担った。669年、死の直前に天智天皇から大織冠と「藤原」の姓を賜り、藤原氏の祖となった。子の藤原不比等を通じて、藤原氏は律令国家の中枢を占める氏族へと発展する。
三河の小大名に生まれ、今川氏の人質から織田信長との同盟を経て自立。豊臣秀吉に臣従したのち、関ヶ原の戦いに勝利して1603年に江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度を定めて約260年続く幕藩体制の礎を築いた。
生野銀山(いくのぎんざん)とは、現在の兵庫県朝来市(旧但馬国)にあった鉱山である。戦国時代に灰吹法が導入されて産出量が増え、織田・豊臣・徳川の各政権のもとで直轄鉱山として重視された。明治時代には西洋の技術を取り入れて近代化が進められ、1973年に閉山した。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは、織田信長のもとで頭角を現し、信長の死後に全国統一を成し遂げた武将である。太閤検地と石高制の確立により近世社会の土台を築いたが、朝鮮への出兵は目的を果たせないまま終わった。1598年の死後、実権は徳川家康へと移っていった。
摂関政治は、平安時代中期に藤原北家が摂政・関白として朝廷政治を主導した政治形態である。藤原氏は天皇の外戚となることで権力を強め、藤原道長・頼通の時代に頂点を迎えた。荘園を経済基盤とし、のちに院政へと移っていく。
院政は、退位した天皇である上皇・法皇が院庁を拠点に政治を主導したしくみである。1086年に白河上皇が始め、摂関政治に代わる朝廷政治の中心となった。院政期には武士の力が中央政治に組み込まれ、平氏政権や鎌倉幕府へつながった。
三河・尾張・駿河など、東海地方に関わる記事。
三河の小大名に生まれ、今川氏の人質から織田信長との同盟を経て自立。豊臣秀吉に臣従したのち、関ヶ原の戦いに勝利して1603年に江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度を定めて約260年続く幕藩体制の礎を築いた。
1560年、桶狭間で今川義元を討ち、「天下布武」の印判を用いつつ、全国統一の事業を進めた。1573年、室町幕府を滅ぼし、その後畿内平定を達成した。天下人としての名声を高めたが、1582年、本能寺の変に倒れた。
新潟・北陸・中部地方から見える近現代史。
新潟県出身。高等小学校卒で土木建築業を営んだのち、衆議院議員に初当選した。池田・佐藤内閣の蔵相を務め、1972年に自民党第6代総裁となり第64・65代内閣総理大臣を務めた。首相在任中に日中国交正常化を実現し、日本列島改造論でインフラ整備による地方振興を推進した。しかし1974年の金脈問題で退陣し、1976年にはロッキード事件で逮捕された。失脚後も「闇将軍」と呼ばれ影響力を保ち続けた。
田中角栄が1972年6月に発表した政策構想であり、全国に新幹線・高速道路網を整備し、25万人規模の地方都市群と工業の再配置によって、過密と過疎を同時に解消することを掲げた国土計画である。同年7月に田中内閣が成立すると政府の経済政策の柱となったが、列島改造への期待や過剰な通貨供給を背景に土地投機が全国規模で広がって地価を大きく押し上げ、第1次石油危機が重なった狂乱物価のなかで、構想全体の全面展開は挫折した。
1974年、田中角栄首相の資産形成の過程や資金源の不透明さを月刊誌『文藝春秋』が報じた一連の報道と、それに端を発した政治不信を「金脈問題」と呼ぶ。立花隆らによる調査報道は、戦後日本における本格的な政治家個人資産の解明として広い反響を呼び、同年12月の田中内閣総辞職につながる契機の一つとなった。後のロッキード事件と並んで、戦後政治と金権体質を結びつけて論じる際の出発点となった事件である。
関東地方に関わる遺跡・人物・政治経済の記事。
1988年に発覚した戦後日本の代表的な汚職事件の一つ。リクルートが子会社の未公開株を政界・官界・財界に譲渡し、値上がり益を供与した。消費税導入と重なって竹下内閣は退陣し、政治不信は政治改革論議が本格化する契機となった。
三河の小大名に生まれ、今川氏の人質から織田信長との同盟を経て自立。豊臣秀吉に臣従したのち、関ヶ原の戦いに勝利して1603年に江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度を定めて約260年続く幕藩体制の礎を築いた。
群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の遺跡。1946年に相沢忠洋が関東ローム層中から打製石器を発見し、1949年の学術調査で確認された。土器を伴わない打製石器の発見により、縄文時代以前の旧石器文化の存在が初めて実証された。
鎌倉幕府は、源頼朝を中心に東国武士がつくった武家政権である。将軍と御家人の主従関係を基盤とし、守護・地頭を通じて全国へ支配を広げた。承久の乱後には朝廷に対する優位を強め、武士の政治が本格化した。
外国・外交・国際関係から日本史を読み解く記事。
日中共同声明とは、1972年9月29日に北京で田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来総理が署名した外交文書であり、日中両国の不正常な状態の終結と国交樹立を宣言したものである。日本と中華人民共和国の政府間関係は、1949年の同国成立以来、正式には存在しなかったが、同日をもって正常化され、同時に台湾の中華民国政府との外交関係は事実上断絶した。声明は、ニクソン訪中によって動き出した米中和解の流れと連動し、戦後日本のアジア外交における転換点となった。
ロッキード事件は、1976年に発覚した戦後日本の大規模な汚職事件である。アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、商社・丸紅を介して全日空への大型旅客機売り込みを巡る資金を日本の政界に流していたことが、米上院の公聴会で明らかになった。同年7月、田中角栄前首相が外為法違反などの容疑で逮捕され、戦後の金権政治への批判が大きく高まった。
英国(イギリス、正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)は、ヨーロッパ北西部に位置する島国である。立憲君主制と議会政治の母国として知られ、16世紀以降は海洋へ乗り出し、世界各地に通商網や植民地を広げた。日本とは江戸時代初期に接触したが、オランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退。幕末の開国を経て関係が再構築され、1902年の日英同盟は近代日本の国際的地位を大きく高めた。
勘合貿易とは、室町幕府と明との間で行われた日明貿易のうち、勘合符という割符を用いて正式な貿易船を確認した公認貿易である。明は倭寇と正規船を区別するために勘合符を求め、日本側はこの制度を通じて明との貿易利益を得た。足利義満の時代に本格化し、前期倭寇への対策として機能したが、のちには細川氏・大内氏など有力守護大名が主導権を争い、後期倭寇の拡大とともに衰えた。
日明貿易とは、室町時代を中心に日本と明との間で行われた正式な貿易である。足利義満が明に使節を送り、明の朝貢体制の中で「日本国王」として通交したことから本格化した。勘合符を用いる勘合貿易によって倭寇と公認船を区別し、銅・硫黄・刀剣などを輸出し、生糸・絹織物・陶磁器・銅銭などを輸入した。16世紀には幕府の弱体化や後期倭寇の拡大によって衰えた。
倭寇とは、14世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国沿岸で略奪・密貿易・海上活動を行った集団を指す言葉である。14世紀を中心とする前期倭寇は日本列島西部の海民や武装勢力が多く、16世紀を中心とする後期倭寇は中国人密貿易商人を中心とする多国籍集団としての性格が強い。日明貿易や勘合貿易は、倭寇と公認船を区別し、東アジアの海上秩序を整えるためにも重要であった。
前期倭寇とは、14世紀から15世紀初めにかけて朝鮮半島や中国沿岸で活動した倭寇である。対馬・壱岐・松浦地方など日本列島西部の島々や沿岸部を拠点とする人々が多く、略奪的な性格が強かった。南北朝の内乱や九州北部の政治的混乱、公的貿易の不足を背景に活発化し、朝鮮王朝や明の対日政策、日明貿易・勘合貿易の制度化にも影響を与えた。
後期倭寇とは、16世紀を中心に明の沿岸部で活動した倭寇である。名前に「倭」とあるが、実態は中国人密貿易商人を中心に、日本人やポルトガル人なども加わる多国籍の武装商業集団であった。明の海禁政策、日明貿易・勘合貿易の衰退、日本銀や南蛮貿易を含む交易需要を背景に広がり、東アジアの海上交易が新しい段階へ移る過程を示している。
寧波の乱とは、1523年に明の貿易港・寧波で、日本から来た大内氏と細川氏の遣明船関係者が衝突した事件である。日明貿易・勘合貿易の利益をめぐる日本側内部の争いが明の領内で表面化したもので、明の官人が殺害されるなど大きな混乱を招いた。この事件後、明は日本船への警戒を強め、公的な日明貿易は大きく制限され、後期倭寇の広がりにもつながっていった。
明(みん)とは、1368年に朱元璋(洪武帝)が建てた中国の統一王朝である。周辺諸国との関係を朝貢体制の中に位置づけ、民間の自由な海上貿易を禁じる海禁政策をとった。日本とは日明貿易(勘合貿易)を通じて通交し、倭寇の動きとも深く関わりながら、1644年まで存続した。
海禁政策(かいきんせいさく)とは、明が民間人による自由な海上貿易や渡航を禁じ、対外交易を朝貢の枠組みに限定した政策である。倭寇の取り締まりと朝貢体制の維持をねらったが、密貿易や後期倭寇の拡大を招く面もあった。16世紀後半には隆慶開関により部分的に緩和された。
王直(おうちょく)とは、16世紀に活動した中国人の貿易商人で、後期倭寇を代表する頭目の一人である。明の海禁政策のもとで密貿易を大規模に組織し、日本の平戸を拠点に東アジアの海上交易を左右した。明の官僚胡宗憲との交渉の末に投降したが、1559年に処刑された。
ポルトガルは、イベリア半島西端に位置する国である。15世紀から大航海時代を先導し、1543年には種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる。以後、南蛮貿易とキリスト教布教を通じて日本と結びついたが、江戸幕府の禁教政策により1639年に来航を禁じられ、関係は一時途絶えた。
スペインは、イベリア半島の大部分を占める国である。1492年のコロンブスの大陸到達以降、アメリカ大陸やフィリピンに広い海外領土を築いた。マニラを経由して日本にも宣教師が渡ったが、サン=フェリペ号事件などを経て江戸幕府の警戒は強まり、1624年にはポルトガルに先立って通交が断絶した。
オランダは、ヨーロッパ北西部の低地の国である。1602年に東インド会社を設立してアジア貿易で勢力を広げ、1641年以降は長崎の出島を通じて、鎖国下の日本と唯一貿易を続けたヨーロッパの国となった。出島を通じて伝わった蘭学は、日本の学問と近代化に大きな影響を与えた。
東インド会社とは、17世紀初めにヨーロッパ諸国が設立した、アジア貿易を独占的に担う特許会社である。オランダ・英国・フランスがそれぞれ会社を設立して競い合った。日本と直接の貿易関係を持った東インド会社には英国東インド会社もあったが、鎖国体制下で長期に出島貿易を担ったのはオランダ東インド会社であった。
イエズス会とは、16世紀にヨーロッパで結成されたカトリック教会の修道会である。海外布教に力を入れ、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師たちもこの会に属していた。南蛮貿易と結びつきながら西日本を中心に広がった。
ルイス=フロイスとは、ポルトガル出身のイエズス会宣教師である。戦国から安土桃山にかけての日本に長く滞在し、織田信長らと接した。布教のかたわら『日本史』を著し、当時の日本を伝える貴重な史料を残した。
朱印船とは、幕府の渡航許可の朱印状を受けて海外へ渡り貿易を行った船である。江戸時代初め、安南・シャム・ルソンなど東南アジアへ向かった。西国大名や豪商が担い、渡航先には日本町も生まれた。
朱印船貿易とは、幕府の朱印状を受けた朱印船が東南アジア各地へ渡って行った貿易である。豊臣秀吉のころに始まり徳川家康が整えた。日本は銀を輸出し生糸などを輸入したが、1635年の海外渡航禁止で終わった。
山田長政とは、江戸時代の初め、シャム(現在のタイ)の都アユタヤの日本町の指導者として活躍した人物である。朱印船貿易がさかんな時代に海を渡り、シャムの王に仕えて高い位にのぼった。1630年ごろ任地で亡くなったと伝えられる。