SUMMARY

新潟県出身。

高等小学校卒で土木建築業を営んだのち、衆議院議員に初当選した。

池田・佐藤内閣の蔵相を務め、1972年に自民党第6代総裁となり、第64・65代内閣総理大臣を務めた。

首相在任中に日中国交正常化を実現し、日本列島改造論でインフラ整備による地方振興を推進した。

しかし1974年の金脈問題で退陣し、1976年にはロッキード事件で逮捕された。

失脚後も「闇将軍」と呼ばれ影響力を保ち続けた。

田中角栄の肖像写真
田中角栄(1972年ごろ)。出典: Wikimedia Commons(内閣官房内閣広報室 / CC BY 4.0)。

叩き上げ政治家の登場

田中角栄は新潟県刈羽郡二田村に生まれた。

高等小学校卒業後に上京し、建築会社勤務を経て自ら土木建築会社を設立した。

戦時中は軍需関連工事などで事業を拡大し、戦後は地方財界を基盤として1947年の総選挙で衆議院議員に初当選した。

学歴エリートが主流であった戦後政治のなかで、田中は当時の新聞報道などで「庶民派」「実務派」と評され、頭角を現した。

1950〜60年代には吉田茂系の保守本流に接近し、岸信介・池田勇人・佐藤栄作各内閣で要職を歴任した。

1962年の大蔵大臣就任以降は、積極財政と公共投資を通じた高度経済成長路線を推進した。

田中の権力基盤は、当時の中選挙区制と、それに支えられた自民党の派閥構造であった。

中選挙区制とは、一つの選挙区から3〜5名を選出する制度である。

同一政党内の競合が、派閥形成と利益誘導政治を促した。

地元・新潟への大規模公共投資による利益還元と、業界団体・地方議員を介した動員力を背景に、田中は最大派閥を率いるに至った。

日中国交正常化と列島改造

1972年7月、佐藤栄作の後継総裁選で福田赳夫を破った田中角栄は、第64代内閣総理大臣に就任した。

就任直後の最重要課題の一つは、中国との国交正常化であった。

1972年9月、田中は北京を訪問し、周恩来首相との会談を経て「日中共同声明」に調印した。

これにより日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府として承認し、台湾(中華民国)との国交を断絶した。

1952年以来続いていた日華平和条約体制は終了し、日中関係は大きく転換した。

首相就任直前の1972年6月、田中は著書『日本列島改造論』を発表した。

高速道路・新幹線・港湾などへの大規模公共投資を通じて地方経済を活性化し、東京一極集中を是正する構想であった。

この構想は列島改造ブームを生み、地価高騰と土地投機を引き起こした。

同じ時期、ニクソン・ショック後の金融緩和や国際商品市況の高騰も重なり、日本経済には強いインフレ圧力が生じていた。

1973年に第一次石油危機(オイルショック)が発生すると、原油価格の急騰が日本経済を直撃した。

物価上昇率は年20%を超え、狂乱物価と呼ばれる混乱に発展した。

田中内閣は物価対策に追われ、経済運営への批判が高まった。

金脈問題と「闇将軍」

1974年、田中の資産形成過程と政治資金の不透明さを追及する金脈問題が噴出した。

雑誌報道と国会追及によって批判が高まり、同年12月、田中は首相を退陣した。

1976年、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社による国際的な売り込み工作の存在が米上院多国籍企業小委員会の公聴会で明らかになった。

日本では全日空への旅客機売り込みに関わる資金が政界に流れたとされ、田中は外国為替及び外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された。

田中はのちに受託収賄罪でも起訴された。

1983年に東京地裁で有罪判決を受けたが、控訴して政治活動を継続した。

事件は、冷戦期の米軍需産業による対外売り込みと、各国政界への献金構造を浮かび上がらせた。

首相退陣後も田中派は自民党最大勢力を維持し、三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘ら歴代政権に強い影響力を及ぼした。

表舞台から退きながら政界を実質的に動かしたことから、田中は「闇将軍」と呼ばれた。

「闇将軍」とは、公的な地位を離れた後も、派閥支配を通じて政権の人事や政策を左右した姿を指す表現である。

1985年、田中派内では竹下登らによる派閥継承の動きが進み、同年田中は脳梗塞で倒れて政治活動から退いた。

1990年の総選挙には立候補せず政界を引退し、1993年に死去した。

前年からの経世会分裂を機に新生党などが結成され、同1993年に自民党は結党以来初めて下野し、55年体制は終焉を迎えた。