島根県出身の政治家であり、1987年に派閥「経世会(竹下派)」を結成した。
同年、自民党総裁・第74代内閣総理大臣に就任し、在任中の1989年1月に昭和天皇が崩御し、内閣として「平成」への改元を担った。
1989年4月には消費税を導入し、地方振興策として「ふるさと創生」を進めた。
しかしリクルート事件をめぐる政治不信の高まりを受けて退陣した。
島根出身の政治家として
竹下登は1924年、島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)の造り酒屋に生まれた。
早稲田大学を卒業後、郷里で教員などを経て、1951年に島根県議会議員に当選し、政治の道に入った。
1958年の総選挙で衆議院議員に初当選し、以後、島根県を地盤として長く議席を保った。
竹下は地元との結びつきを重視し、地方の声を国政に反映させる姿勢を政治活動の基盤とした。
のちに掲げる地方振興策の背景には、こうした地方出身者としての立場があったと評価されることが多い。
田中派から竹下派へ
竹下は自民党内で、佐藤栄作内閣の官房長官などを務めて頭角を現し、やがて田中角栄が率いる田中派の有力者となった。
派閥とは、自民党内で特定の有力政治家を中心に結成された議員集団を指す。
派閥は総裁選挙での集票や、閣僚・党役員ポストの配分を通じて党内政治の単位として機能し、田中派や竹下派は当時の自民党で最大規模の派閥であった。
田中角栄が1976年のロッキード事件で逮捕された後も、田中派は自民党最大派閥として強い影響力を保ち続けた。
しかし1985年に田中が病に倒れると、派内では後継をめぐる動きが本格化した。
竹下は1987年7月4日、田中派の議員の多くを結集して新たな派閥「経世会」を旗揚げした。
これは田中派をそのまま受け継いだものではなく、田中派から分裂・独立する形で結成されたものであった。
経世会は竹下が結成した派閥の正式名称であり、通称を竹下派という。
田中派の流れをくむこの派閥は、以後、平成初期の自民党政治で中心的な役割を果たした。
竹下派は当時の自民党で最大規模を誇り、竹下の総裁就任を支える基盤となった。
首相就任と昭和から平成への転換
1987年11月、中曽根康弘の後継として、竹下登は自民党総裁に指名され、第74代内閣総理大臣に就任した。
竹下内閣は発足時には最大派閥を背景に一定の政権基盤を持ち、内政・外交の課題に取り組んだ。
在任中の1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御した。
竹下内閣は皇位継承にともなう改元を担い、新元号「平成」が定められた。
新元号は当時の官房長官・小渕恵三によって発表された。
こうして竹下内閣は、昭和から平成へという時代の転換点を担う政権となった。
竹下は、田中角栄の退陣以後も続いた派閥中心の自民党政治のなかで首相に就いた人物であり、その政権運営は田中派から竹下派への継承を背景としていた。
消費税導入とふるさと創生
竹下内閣の最大の政策課題の一つが、消費税の導入であった。
間接税の抜本改革は大平正芳・中曽根康弘の各内閣でも試みられたが、いずれも実現に至らなかった。
竹下内閣は税制改革関連法を成立させ、1989年4月1日から税率3%の消費税を導入した。
消費税は、特定の品目に課す従来の物品税に代えて、広く商品やサービスの消費に課す間接税であり、高齢化にともなう財政需要を見据えた税制改革と位置づけられた。
一方で、新たな税負担の導入には国民の間に強い反発もあり、消費税の是非はその後の選挙でも大きな争点となった。
また竹下内閣は、地方振興策として「ふるさと創生」を進めた。
これは全国の各市区町村に対し、使途を自治体の裁量に委ねる形で一律に1億円(ふるさと創生1億円事業)を交付するもので、地域の自主的な振興を促す試みであった。
交付金の使い道は自治体ごとに大きく異なり、その効果については当時から評価が分かれた。
リクルート事件と退陣
1988年、情報サービス企業リクルートが、子会社の未公開株を政界・官界・財界の関係者に譲渡し、値上がり益を供与していたことが明らかになった。
リクルート事件は、政官界を広く巻き込む汚職事件として大きく報じられ、竹下内閣の関係者にも疑惑が及んだ。
消費税導入への反発と汚職事件への批判が重なり、内閣支持率は大きく低下した。
竹下は1989年4月に退陣を表明し、同年6月に内閣総理大臣を退いた。
リクルート事件をめぐっては関係者の立件も行われたが、竹下本人が立件されたわけではない。
もっとも、竹下の周辺への未公開株の譲渡やリクルート側からの資金提供をめぐる問題が表面化し、これが政治責任として内閣退陣の直接の契機となった点が重要である。
後継には外相を務めた宇野宗佑が就任した。
この一連の経過は、平成初期に政治改革が大きな政治課題として浮上する出発点ともなった。
その後の影響
首相退陣後も、竹下は自民党内で大きな影響力を保ち続けた。
竹下派(経世会)は退陣後もしばらくは自民党最大派閥であり続け、その流れをくむ系譜からは橋本龍太郎・小渕恵三ら後の首相が輩出された。
一方で1992年には、政治改革や派閥運営をめぐって竹下派が分裂し、小沢一郎・羽田孜らが離脱して新生党の結成につながった。
この分裂は、翌1993年に自民党が結党以来初めて政権を失い、55年体制が終わる流れの一因となった。
竹下登は、田中角栄から続く派閥政治の系譜を受け継ぎつつ、消費税導入や改元といった制度上の大きな転換を担い、平成初期の政治改革へと続く時代の橋渡しをした政治家として位置づけられる。
竹下は2000年に死去した。