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章節別目次

章節別目次

山川「日本史探究」の章立てにそって、記事を部・章別にたどる。

第0部 通史

特定の時代に収まらず、複数の時代を貫いて理解したいテーマ。

通史

天皇

「天皇」とは日本の君主の称号であり、7世紀後半の天武朝において「大王(おおきみ)」に代わって使われ始めたとされる。律令国家においては統治権の頂点に位置づけられ、公地公民・班田収授の主体として制度上の最高権威を持った。中世以降は武家政権の台頭によって実質的権力を失い、権威の象徴として存続し続けた。近代の大日本帝国憲法では「統治権の総攬者」とされたが、第二次世界大戦後の日本国憲法のもとで「日本国の象徴」へと転換し、今日に至る。

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通史

内閣総理大臣

内閣総理大臣は、日本の内閣を統括する行政府の長である。1885年(明治18年)、太政官制に代わる内閣制度の創設とともに設置され、初代には伊藤博文が就いた。大日本帝国憲法下では天皇の任命を受ける「同輩中の首席」として位置づけられ、他の国務大臣と対等な関係にあった。日本国憲法下では国会の指名に基づき天皇が任命する形となり、国務大臣の任免権を持つ行政府の明確な首長となった。

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通史

英国

英国(イギリス、正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)は、ヨーロッパ北西部に位置する島国である。立憲君主制と議会政治の母国として知られ、16世紀以降は海洋へ乗り出し、世界各地に通商網や植民地を広げた。日本とは江戸時代初期に接触したが、オランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退。幕末の開国を経て関係が再構築され、1902年の日英同盟は近代日本の国際的地位を大きく高めた。

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通史

ポルトガル

ポルトガルは、イベリア半島西端に位置する国である。15世紀から大航海時代を先導し、1543年には種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる。以後、南蛮貿易とキリスト教布教を通じて日本と結びついたが、江戸幕府の禁教政策により1639年に来航を禁じられ、関係は一時途絶えた。

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通史

スペイン

スペインは、イベリア半島の大部分を占める国である。1492年のコロンブスの大陸到達以降、アメリカ大陸やフィリピンに広い海外領土を築いた。マニラを経由して日本にも宣教師が渡ったが、サン=フェリペ号事件などを経て江戸幕府の警戒は強まり、1624年にはポルトガルに先立って通交が断絶した。

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通史

オランダ

オランダは、ヨーロッパ北西部の低地の国である。1602年に東インド会社を設立してアジア貿易で勢力を広げ、1641年以降は長崎の出島を通じて、鎖国下の日本と唯一貿易を続けたヨーロッパの国となった。出島を通じて伝わった蘭学は、日本の学問と近代化に大きな影響を与えた。

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通史

東インド会社

東インド会社とは、17世紀初めにヨーロッパ諸国が設立した、アジア貿易を独占的に担う特許会社である。オランダ・英国・フランスがそれぞれ会社を設立して競い合った。日本と直接の貿易関係を持った東インド会社には英国東インド会社もあったが、鎖国体制下で長期に出島貿易を担ったのはオランダ東インド会社であった。

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第Ⅰ部 原始・古代

旧石器・縄文・弥生から、律令国家の形成と貴族政治の時代まで。

第1章 日本文化のあけぼの

旧石器時代

岩宿遺跡

群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の遺跡。1946年に相沢忠洋が関東ローム層中から打製石器を発見し、1949年の学術調査で確認された。土器を伴わない打製石器の発見により、縄文時代以前の旧石器文化の存在が初めて実証された。

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旧石器時代

旧石器時代

旧石器時代は、土器をもたず、打製石器を用いて狩猟・採集を営んだ時代である。地質学上の更新世(氷期)にあたり、海面の低下によって日本列島と大陸の間を人や動物が移動しやすくなる時期もあった。人々はナウマンゾウなどの大型動物を追い、移動しながら生活した。日本では長くその存在が確認されていなかったが、1949年の岩宿遺跡の調査によって実在が初めて実証された。

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新石器時代

新石器時代

新石器時代は、磨製石器の普及や農耕・牧畜、定住生活、土器の使用などが地域に応じて現れた、世界史上の時代区分である。石器時代を打製石器の旧石器時代と磨製石器の新石器時代に分ける考え方の一段階にあたり、西アジアなどではこの時期に農耕・牧畜が始まった(新石器革命)。日本列島では、土器や磨製石器を用いながらも採集・狩猟・漁労を続けた縄文時代がこれにほぼ対応するが、農耕を中心としない点で性格が異なる。

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第2章 古墳とヤマト政権

古墳時代

物部氏

物部氏は、古墳時代から飛鳥時代にかけてヤマト政権の中枢にあった伴造(とものみやつこ)系の有力豪族である。軍事と祭祀の職掌を世襲し、大連(おおむらじ)として政治を主導した。6世紀後半、仏教受容の是非をめぐり蘇我氏と対立し、587年の丁未(ていび)の乱で物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子に敗れて自害、本宗家は滅亡した。以後、蘇我氏が政権の中心を占めることになる。

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古墳時代〜飛鳥時代

蘇我氏

蘇我氏は、5〜7世紀にヤマト政権内で強大な権力を握った豪族である。仏教導入を推進することで渡来系氏族との連携を強め、物部氏を滅ぼして政権の中心を占めた。大王(天皇)家との婚姻関係を通じて皇位継承にも介入し、蘇我蝦夷・入鹿の代には大臣(おおおみ、臣姓豪族の代表として朝政を主導する役職)の枠を超えて権力を集中させた。しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足によって入鹿が暗殺される乙巳の変によって、蘇我本宗家は滅亡した。

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飛鳥時代

厩戸王(皇子)/聖徳太子

本名は厩戸王(うまやとのおう)。574年生まれ。用明天皇の皇子で、母方も蘇我氏の血を引く。593年、叔母にあたる推古天皇のもとで政治を補佐し、大臣の蘇我馬子と協力して政務を主導した。推古朝では603年に冠位十二階、604年に十七条憲法が定められた。607年には小野妹子を遣隋使として送り、隋に対等の姿勢を示した。仏教を篤く信仰し、法隆寺・四天王寺を建立、三経義疏を著したと伝わる。622年に死去。その子・山背大兄王は643年に蘇我入鹿に滅ぼされ、これが乙巳の変の遠因となった。

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第3章 律令国家の形成

飛鳥時代

乙巳の変

645年6月12日(旧暦)、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや:当時の宮殿)において、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺したクーデター。翌日には中大兄方の軍勢に邸宅を包囲された父・蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡した。この事件を契機に始まる「大化改新」の起点となった。

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飛鳥時代

大化改新

大化改新とは、645年の乙巳の変で蘇我本宗家が滅んだことを契機に、中大兄皇子・中臣鎌足らが推進した一連の政治改革の総称である。豪族が土地・人民を私有する体制を解体し、公地公民の原則のもとで、大王(おおきみ、後の天皇)を中心とする中央集権国家への転換を目指した。646年の「改新の詔」に公地公民や地方制度・税制をめぐる方針が示され、これらは後の律令国家体制の形成につながる出発点となった。

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飛鳥〜奈良時代

律令国家

律令国家とは、律(刑法)と令(行政法)を法的根拠として統治する中央集権的国家体制のことである。日本では7世紀後半の乙巳の変・大化改新を出発点として整備が進み、701年の大宝律令の制定によって完成した。天皇を頂点に二官八省が政務を担い、全国を国・郡・里に分けて国司が統治する仕組みは、古代国家の基本的な統治構造となった。土地・人民を原則として国家が管理する公地公民制と、それに基づく租庸調の税制が体制を支えた。

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飛鳥時代

天智天皇/中大兄皇子

舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子。645年、中臣鎌足と謀って乙巳の変を起こし、蘇我氏本宗家を滅ぼした。皇太子として大化改新を推進。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのち、九州北部の防衛強化と近江大津宮への遷都を進めた。668年に即位して天智天皇となり、670年に最古の全国的戸籍庚午年籍を作成。671年に崩御し、翌672年に皇位継承をめぐって壬申の乱が起きる。

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飛鳥時代

中臣(藤原)鎌足

神祇祭祀をつかさどる中臣氏の出身。中大兄皇子とともに645年の乙巳の変を計画・実行し、蘇我氏本宗家を打倒した。以後は内臣(うちつおみ)として大化改新を補佐し、近江朝廷の中枢を担った。669年、死の直前に天智天皇から大織冠と「藤原」の姓を賜り、藤原氏の祖となった。子の藤原不比等を通じて、藤原氏は律令国家の中枢を占める氏族へと発展する。

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第4章 貴族政治の展開

平安時代

摂関政治

摂関政治は、平安時代中期に藤原北家が摂政・関白として朝廷政治を主導した政治形態である。藤原氏は天皇の外戚となることで権力を強め、藤原道長・頼通の時代に頂点を迎えた。荘園を経済基盤とし、のちに院政へと移っていく。

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第Ⅱ部 中世

院政から鎌倉・室町・戦国へ。武家政権の成立と展開の時代。

第5章 院政と武士の躍進

平安時代後期

院政

院政は、退位した天皇である上皇・法皇が院庁を拠点に政治を主導したしくみである。1086年に白河上皇が始め、摂関政治に代わる朝廷政治の中心となった。院政期には武士の力が中央政治に組み込まれ、平氏政権や鎌倉幕府へつながった。

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第6章 武家政権の成立

鎌倉時代

鎌倉幕府

鎌倉幕府は、源頼朝を中心に東国武士がつくった武家政権である。将軍と御家人の主従関係を基盤とし、守護・地頭を通じて全国へ支配を広げた。承久の乱後には朝廷に対する優位を強め、武士の政治が本格化した。

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第7章 武家社会の成長

室町時代

勘合貿易

勘合貿易とは、室町幕府と明との間で行われた日明貿易のうち、勘合符という割符を用いて正式な貿易船を確認した公認貿易である。明は倭寇と正規船を区別するために勘合符を求め、日本側はこの制度を通じて明との貿易利益を得た。足利義満の時代に本格化し、前期倭寇への対策として機能したが、のちには細川氏・大内氏など有力守護大名が主導権を争い、後期倭寇の拡大とともに衰えた。

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室町時代

日明貿易

日明貿易とは、室町時代を中心に日本と明との間で行われた正式な貿易である。足利義満が明に使節を送り、明の朝貢体制の中で「日本国王」として通交したことから本格化した。勘合符を用いる勘合貿易によって倭寇と公認船を区別し、銅・硫黄・刀剣などを輸出し、生糸・絹織物・陶磁器・銅銭などを輸入した。16世紀には幕府の弱体化や後期倭寇の拡大によって衰えた。

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南北朝〜戦国時代

倭寇

倭寇とは、14世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国沿岸で略奪・密貿易・海上活動を行った集団を指す言葉である。14世紀を中心とする前期倭寇は日本列島西部の海民や武装勢力が多く、16世紀を中心とする後期倭寇は中国人密貿易商人を中心とする多国籍集団としての性格が強い。日明貿易や勘合貿易は、倭寇と公認船を区別し、東アジアの海上秩序を整えるためにも重要であった。

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南北朝〜室町時代

前期倭寇

前期倭寇とは、14世紀から15世紀初めにかけて朝鮮半島や中国沿岸で活動した倭寇である。対馬・壱岐・松浦地方など日本列島西部の島々や沿岸部を拠点とする人々が多く、略奪的な性格が強かった。南北朝の内乱や九州北部の政治的混乱、公的貿易の不足を背景に活発化し、朝鮮王朝や明の対日政策、日明貿易・勘合貿易の制度化にも影響を与えた。

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戦国時代

後期倭寇

後期倭寇とは、16世紀を中心に明の沿岸部で活動した倭寇である。名前に「倭」とあるが、実態は中国人密貿易商人を中心に、日本人やポルトガル人なども加わる多国籍の武装商業集団であった。明の海禁政策、日明貿易・勘合貿易の衰退、日本銀や南蛮貿易を含む交易需要を背景に広がり、東アジアの海上交易が新しい段階へ移る過程を示している。

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室町時代

寧波の乱

寧波の乱とは、1523年に明の貿易港・寧波で、日本から来た大内氏と細川氏の遣明船関係者が衝突した事件である。日明貿易・勘合貿易の利益をめぐる日本側内部の争いが明の領内で表面化したもので、明の官人が殺害されるなど大きな混乱を招いた。この事件後、明は日本船への警戒を強め、公的な日明貿易は大きく制限され、後期倭寇の広がりにもつながっていった。

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室町時代

明(みん)とは、1368年に朱元璋(洪武帝)が建てた中国の統一王朝である。周辺諸国との関係を朝貢体制の中に位置づけ、民間の自由な海上貿易を禁じる海禁政策をとった。日本とは日明貿易(勘合貿易)を通じて通交し、倭寇の動きとも深く関わりながら、1644年まで存続した。

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室町時代

海禁政策

海禁政策(かいきんせいさく)とは、明が民間人による自由な海上貿易や渡航を禁じ、対外交易を朝貢の枠組みに限定した政策である。倭寇の取り締まりと朝貢体制の維持をねらったが、密貿易や後期倭寇の拡大を招く面もあった。16世紀後半には隆慶開関により部分的に緩和された。

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戦国時代

王直

王直(おうちょく)とは、16世紀に活動した中国人の貿易商人で、後期倭寇を代表する頭目の一人である。明の海禁政策のもとで密貿易を大規模に組織し、日本の平戸を拠点に東アジアの海上交易を左右した。明の官僚胡宗憲との交渉の末に投降したが、1559年に処刑された。

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第Ⅲ部 近世

織豊政権から幕藩体制の成立・展開・動揺まで。近世社会の成熟。

第8章 近世の幕開け

江戸

徳川家康

三河の小大名に生まれ、今川氏の人質から織田信長との同盟を経て自立。豊臣秀吉に臣従したのち、関ヶ原の戦いに勝利して1603年に江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度を定めて約260年続く幕藩体制の礎を築いた。

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安土桃山時代

織田信長

1560年、桶狭間で今川義元を討ち、「天下布武」の印判を用いつつ、全国統一の事業を進めた。1573年、室町幕府を滅ぼし、その後畿内平定を達成した。天下人としての名声を高めたが、1582年、本能寺の変に倒れた。

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戦国時代

灰吹法

灰吹法(はいふきほう)とは、鉛を用いて鉱石から銀を効率よく分離する製錬技術である。16世紀前半に朝鮮半島から伝わり、石見銀山をはじめとする鉱山の銀産出量を飛躍的に増やした。この技術革新は戦国大名の財政基盤を強め、南蛮貿易を通じた世界の銀流通にも大きな影響を与えた。

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戦国時代

石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)とは、現在の島根県にあった銀鉱山で、集落の名から大森銀山とも呼ばれる。灰吹法の導入により16世紀半ばに産出量が急増し、日本有数の銀山として戦国大名の争奪の対象となった。南蛮貿易を通じて世界の銀流通にも影響を与え、2007年にユネスコの世界遺産に登録された。

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戦国時代

生野銀山

生野銀山(いくのぎんざん)とは、現在の兵庫県朝来市(旧但馬国)にあった鉱山である。戦国時代に灰吹法が導入されて産出量が増え、織田・豊臣・徳川の各政権のもとで直轄鉱山として重視された。明治時代には西洋の技術を取り入れて近代化が進められ、1973年に閉山した。

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安土桃山時代

石高制

石高制(こくだかせい)とは、田畑の生産力を米の収穫量に換算した石高を基準に、大名や農民を位置づける近世日本の支配のしくみである。豊臣秀吉の太閤検地の結果をもとに整えられ、大名の軍役や農民の年貢負担の基準となり、江戸幕府の幕藩体制にもそのまま引き継がれた。

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安土桃山時代

太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)とは、豊臣秀吉が1582年から全国的に進めた土地調査である。統一した枡と一地一作人の原則により田畑の生産力を石高として算定し、荘園制を解体して石高制の土台を築いた。近世社会の支配体制の出発点となった政策である。

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安土桃山時代

豊臣秀吉

豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは、織田信長のもとで頭角を現し、信長の死後に全国統一を成し遂げた武将である。太閤検地と石高制の確立により近世社会の土台を築いたが、朝鮮への出兵は目的を果たせないまま終わった。1598年の死後、実権は徳川家康へと移っていった。

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戦国〜安土桃山時代

イエズス会

イエズス会とは、16世紀にヨーロッパで結成されたカトリック教会の修道会である。海外布教に力を入れ、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師たちもこの会に属していた。南蛮貿易と結びつきながら西日本を中心に広がった。

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戦国〜安土桃山時代

ルイス=フロイス

ルイス=フロイスとは、ポルトガル出身のイエズス会宣教師である。戦国から安土桃山にかけての日本に長く滞在し、織田信長らと接した。布教のかたわら『日本史』を著し、当時の日本を伝える貴重な史料を残した。

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安土桃山時代

バテレン追放令

バテレン追放令とは、1587年に豊臣秀吉が出した、キリスト教の宣教師を国外へ退去させることを命じた法令である。九州平定の直後に発せられたが、南蛮貿易は認められたため徹底されなかった。のちの江戸幕府による禁教へとつながる出発点となった。

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安土桃山時代

海賊取締令

海賊取締令とは、1588年に豊臣秀吉が出した、海上での海賊行為を禁じた法令である。同年の刀狩令と対をなし、海の武力を国家が管理しようとした。バテレン追放令とあわせ、海の秩序を統制する政策の一つであった。

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安土桃山時代

織豊政権

織豊政権とは、織田信長と豊臣秀吉が戦国の争乱を収めて全国統一を進めた時代の政権である。検地・石高制・兵農分離などの政策で近世社会の土台を築き、中世の武家政権から江戸幕府へと移る橋渡しの役割を果たした。

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安土桃山時代

文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)

文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が明の征服を目指して二度にわたり朝鮮に大軍を送った戦いである。一度目を文禄の役(壬辰倭乱)、二度目を慶長の役(丁酉再乱)と呼ぶ。いずれも目的を果たせず、秀吉の死とともに撤退し、豊臣政権が衰える一因となった。

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第9章 幕藩体制の成立と展開

江戸時代

佐渡金山

佐渡金山(さどきんざん)とは、現在の新潟県佐渡市にあった鉱山で、開発の中心地であった相川の名から佐渡相川金山とも呼ばれる。1601年の鉱脈発見以降、江戸幕府の直轄地として重要な財源となり、灰吹法などの技術を用いて金・銀を産出した。1989年に採掘を終え、2024年にはユネスコの世界遺産に登録された。

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江戸時代

木綿

木綿(もめん)とは、綿花から作られる繊維や布のことで、それまでの麻に代わって江戸時代の庶民衣料の中心となった。三河や河内・摂津などで商品作物として盛んに栽培され、農村に貨幣経済を広げる要因ともなった。江戸時代に培われた生産基盤は、明治の紡績業の発展にもつながった。

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江戸時代

呉服

呉服(ごふく)とは、和服に仕立てる絹の反物、およびそれを扱う商売を指す言葉である。1673年に三井高利が開いた越後屋は、現金掛け値なしという新しい商法で江戸の呉服商売を革新した。この越後屋は明治以降、日本初の百貨店である三越へと発展した。

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戦国〜江戸時代

朱印状

朱印状とは、朱色の印を押した公文書である。とくに江戸時代初め、幕府が海外へ渡る船に与えた渡航許可状を指すことが多い。だれが海外へ渡ってよいかを幕府が定め、貿易を管理するしくみの中心となった。

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江戸時代初期

朱印船

朱印船とは、幕府の渡航許可の朱印状を受けて海外へ渡り貿易を行った船である。江戸時代初め、安南・シャム・ルソンなど東南アジアへ向かった。西国大名や豪商が担い、渡航先には日本町も生まれた。

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江戸時代初期

朱印船貿易

朱印船貿易とは、幕府の朱印状を受けた朱印船が東南アジア各地へ渡って行った貿易である。豊臣秀吉のころに始まり徳川家康が整えた。日本は銀を輸出し生糸などを輸入したが、1635年の海外渡航禁止で終わった。

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江戸時代初期

山田長政

山田長政とは、江戸時代の初め、シャム(現在のタイ)の都アユタヤの日本町の指導者として活躍した人物である。朱印船貿易がさかんな時代に海を渡り、シャムの王に仕えて高い位にのぼった。1630年ごろ任地で亡くなったと伝えられる。

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第10章 幕藩体制の動揺

江戸時代

時習館

時習館は、1755年に熊本藩主細川重賢が藩政改革の一環として設けた藩校である。『論語』の「学びて時にこれを習う」に由来する名を持ち、朱子学を中心に藩士教育を行った。

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江戸時代

藩校

藩校は、江戸時代に各藩が設けた藩士教育のための学校である。朱子学を中心とする儒学、漢学、武芸、医学、兵学などを教え、藩政を担う武士の教養と規律を育てた。18世紀以降、幕藩体制が安定する一方で財政難や社会変化が進むと、藩校は藩政改革を支える人材育成機関として重視された。幕末には洋学や実学を取り入れる藩校も現れ、明治以後の近代学校制度へつながる教育基盤の一つとなった。

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第Ⅳ部 近代・現代

開国・明治維新から近代国家の形成、二つの大戦、戦後の歩みと現代まで。

第11章 近世から近代へ

江戸時代

薩英戦争

薩英戦争は、1863年に生麦事件の処理をめぐって薩摩藩とイギリスが鹿児島湾で戦った戦いである。双方が損害を受けたのち和解し、薩摩藩は攘夷から近代化・倒幕へと路線を転換していった。

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江戸時代〜明治時代

生糸

生糸(きいと)とは、蚕の繭から取り出す絹織物の原料となる糸である。古代・中世にも国内生産はあったが、高級な生糸・絹織物は中国からの輸入に大きく依存していた。江戸時代に養蚕が広がって国内生産が本格化し、1859年の開港以降は最重要の輸出品となった。1872年設立の富岡製糸場は殖産興業を象徴する施設として日本の近代化を支えた。

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第12章 近代国家の成立

明治・大正

大隈重信

肥前佐賀藩出身。明治新政府で大蔵卿などを歴任し財政改革を主導するが、1881年の明治十四年の政変で薩長藩閥から追放された。下野後、立憲改進党を結成し、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設。1898年に板垣退助と組んで日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織。第一次世界大戦中の1914年から1916年まで第2次大隈内閣を率い、対華二十一カ条要求などを行った。

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第13章 近代国家の展開

明治時代

軍部大臣現役武官制

1900年に第二次山県有朋内閣で法制化された、陸軍大臣と海軍大臣を現役の陸・海軍大将または中将からのみ任官すると定めた制度。一般の政党員が軍部大臣に就任する道を規定上閉ざし、大臣職を軍部で独占することで、政党が軍部内で影響力や結びつきを強めることを阻止しようとした。

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第14章 近代の産業と生活

明治時代

松方財政/松方デフレ

松方財政は、1880年代前半に大蔵卿の松方正義が進めた財政の立て直しであり、それにともなう物価の下落を松方デフレという。紙幣が整理されて銀本位制が整う一方、農村は不況に苦しみ、のちの産業発展の下地となった。

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明治時代

企業勃興

企業勃興は、1880年代後半に鉄道・紡績を中心として会社の設立が相次いだ現象で、株式会社のしくみを用いて資金が集められた。松方財政による通貨の安定を背景に起こり、日本の産業革命の出発点となった。

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明治時代〜大正時代

綿織物業

綿織物業(めんおりものぎょう)とは、綿糸を織って綿布を作る産業である。江戸時代の手織りの伝統を土台に、明治の紡績業が供給する綿糸と結びついて発展し、豊田佐吉による力織機の改良で生産性を高めた。大正から昭和初期には日本を代表する輸出産業に成長した。

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第15章 恐慌と第二次世界大戦

昭和前期

昭和恐慌

昭和恐慌は、1930年から1931年ごろに日本を襲った不況である。世界恐慌と金解禁が重なり、輸出不振、物価下落、失業、農村不況が広がった。金輸出再禁止と高橋財政で景気は回復に向かったが、政治不信と軍部の発言力拡大にもつながった。

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第16章 占領下の日本

昭和戦後

GHQ

GHQは、第二次世界大戦後に日本を占領管理した連合国軍最高司令官総司令部である。非軍事化と民主化を基本方針とし、日本国憲法の制定、農地改革、財閥解体、教育改革などを進めた。冷戦の進展により政策は転換し、1952年に占領は終結した。

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第17章 高度成長の時代

昭和

佐藤栄作

佐藤栄作(1901〜1975年)は、第61〜63代内閣総理大臣として1964年から1972年まで2,798日にわたり政権を担い、当時としては戦後最長の連続在任記録を残した政治家である。兄は第56・57代首相の岸信介である。1965年の日韓基本条約締結、1968年の小笠原諸島返還、1972年の沖縄返還を実現し、戦後処理を進展させた。1967年には「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」の非核三原則を表明し、1974年に日本人初のノーベル平和賞を受賞した。

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昭和

田中角栄

新潟県出身。高等小学校卒で土木建築業を営んだのち、衆議院議員に初当選した。池田・佐藤内閣の蔵相を務め、1972年に自民党第6代総裁となり第64・65代内閣総理大臣を務めた。首相在任中に日中国交正常化を実現し、日本列島改造論でインフラ整備による地方振興を推進した。しかし1974年の金脈問題で退陣し、1976年にはロッキード事件で逮捕された。失脚後も「闇将軍」と呼ばれ影響力を保ち続けた。

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昭和

田中角栄内閣

佐藤栄作の長期政権を継いで1972年に成立した内閣。田中角栄が第64・65代内閣総理大臣として組織した第1次・第2次の内閣で、総裁選で福田赳夫を破り「決断と実行」を掲げて高支持率で発足し、日中共同声明による国交正常化を実現、日本列島改造論を看板政策とした。しかし改造ブームと第1次石油危機による狂乱物価で支持率が低下し、1974年の金脈問題を機に同年12月に退陣した。

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昭和

狂乱物価

「列島改造」に伴う地価の上昇や、第1次石油危機による原油価格の高騰を背景に、1974年の消費者物価上昇率が約23%に達した事態をいう。トイレットペーパーなどの生活必需品が店頭から姿を消し、消費者の買い溜めが広がった。金融引締めの結果、1974年の実質経済成長率は戦後初のマイナス成長を記録し、日本経済はスタグフレーション(景気停滞と物価上昇が同時に起きる状態)に陥った。

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昭和

マイナス成長

マイナス成長とは、経済の規模を示す指標が前年を下回り縮小することをいう。日本では1974年(昭和49年)、実質GNP(国民総生産。居住者が国内外で得た所得の合計で、範囲を国内に限るGDPとは異なる)が前年を下回り、戦後初のマイナス成長を記録した。第1次石油危機による原油価格の高騰と、物価を抑えるための金融引締めが重なった結果であり、1955年から続いた高度経済成長(年平均約10%)はここで終わりを告げた。以後の日本は年平均4〜5%の安定成長期へと移行した。

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昭和

日本列島改造論

田中角栄が1972年6月に発表した政策構想であり、全国に新幹線・高速道路網を整備し、25万人規模の地方都市群と工業の再配置によって、過密と過疎を同時に解消することを掲げた国土計画である。同年7月に田中内閣が成立すると政府の経済政策の柱となったが、列島改造への期待や過剰な通貨供給を背景に土地投機が全国規模で広がって地価を大きく押し上げ、第1次石油危機が重なった狂乱物価のなかで、構想全体の全面展開は挫折した。

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昭和

金脈問題

1974年、田中角栄首相の資産形成の過程や資金源の不透明さを月刊誌『文藝春秋』が報じた一連の報道と、それに端を発した政治不信を「金脈問題」と呼ぶ。立花隆らによる調査報道は、戦後日本における本格的な政治家個人資産の解明として広い反響を呼び、同年12月の田中内閣総辞職につながる契機の一つとなった。後のロッキード事件と並んで、戦後政治と金権体質を結びつけて論じる際の出発点となった事件である。

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昭和

日中共同声明

日中共同声明とは、1972年9月29日に北京で田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来総理が署名した外交文書であり、日中両国の不正常な状態の終結と国交樹立を宣言したものである。日本と中華人民共和国の政府間関係は、1949年の同国成立以来、正式には存在しなかったが、同日をもって正常化され、同時に台湾の中華民国政府との外交関係は事実上断絶した。声明は、ニクソン訪中によって動き出した米中和解の流れと連動し、戦後日本のアジア外交における転換点となった。

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昭和

三木武夫

徳島県出身の政治家であり、戦前から衆議院議員を務め、1955年の自民党結党に合流した。金脈問題で退陣した田中角栄の後を継いで、自民党第7代総裁・第66代内閣総理大臣に就任した。「クリーン三木」を掲げてロッキード事件では捜査への政治介入をしない姿勢を貫いた。党内主流派による「三木おろし」を受け、1976年12月の総選挙敗北を機に退陣した。

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昭和

ロッキード事件

ロッキード事件は、1976年に発覚した戦後日本の大規模な汚職事件である。アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、商社・丸紅を介して全日空への大型旅客機売り込みを巡る資金を日本の政界に流していたことが、米上院の公聴会で明らかになった。同年7月、田中角栄前首相が外為法違反などの容疑で逮捕され、戦後の金権政治への批判が大きく高まった。

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昭和

「クリーン政治」

政治とカネの不透明な関係を断ち、資金の流れを透明化して国民の信頼に応える政治を目指す理念をあらわす標語。金権政治への批判を背景に、1974年の金脈問題を契機に政治課題の前面に押し出された。三木武夫内閣は「クリーン三木」を掲げ、1975年に政治資金規正法・公職選挙法を改正した。翌1976年のロッキード事件は、クリーン政治を求める世論をさらに強めた。

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昭和

三木内閣

田中角栄前首相が金脈問題で退陣したあとを受け、1974年に成立した三木武夫を首相とする内閣。失われた政治への信頼を回復するため「クリーン三木」を掲げ、1975年に政治資金規正法・公職選挙法を改正した。ロッキード事件では真相究明の姿勢を示し、検察の捜査により田中前首相の逮捕に至ったが、これに反発する党内の倒閣運動(「三木おろし」)を招き、1976年12月の総選挙での敗北を機に総辞職した。

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第18章 激動する世界と日本

昭和・平成

リクルート事件

1988年に発覚した戦後日本の代表的な汚職事件の一つ。リクルートが子会社の未公開株を政界・官界・財界に譲渡し、値上がり益を供与した。消費税導入と重なって竹下内閣は退陣し、政治不信は政治改革論議が本格化する契機となった。

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昭和・平成

竹下登

島根県出身の政治家であり、1987年に派閥「経世会(竹下派)」を結成した。同年、自民党総裁・第74代内閣総理大臣に就任し、在任中の1989年1月に昭和天皇が崩御し、内閣として「平成」への改元を担った。1989年4月には消費税を導入し、地方振興策として「ふるさと創生」を進めた。しかしリクルート事件をめぐる政治不信の高まりを受けて退陣した。

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