SUMMARY

物部氏は、古墳時代から飛鳥時代にかけてヤマト政権の中枢にあった伴造(とものみやつこ)系の有力豪族である。

軍事と祭祀の職掌を世襲し、大連(おおむらじ)として政治を主導した。

6世紀後半、仏教受容の是非をめぐり蘇我氏と対立し、587年の丁未(ていび)の乱で物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子に敗れて自害、本宗家は滅亡した。

以後、蘇我氏が政権の中心を占めることになる。

出自と職掌

物部氏は、武器の製造・管理や軍事を職掌としたとされる氏族で、伴造制のもとで朝廷に仕える氏族の一つに数えられる。

『日本書紀』などの記録では、物部氏の祖を饒速日命(にぎはやひのみこと)とする伝承が伝わるが、これは氏族の由緒を語る伝承であり、史実としての検証は難しい。

ヤマト政権の組織では、有力豪族のうち最有力の者が大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)として政治を担った。

大臣は臣(おみ)姓の有力氏族(蘇我氏など)から、大連は連(むらじ)姓の有力氏族(物部氏・大伴氏など)から選ばれたとされる。

物部氏は軍事と祭祀を背景に、6世紀には大伴氏と並んで連姓豪族の代表的存在となった。

崇仏論争と蘇我氏との対立

6世紀半ば、百済(くだら)から仏教が伝えられた(伝来年は『日本書紀』の552年と『上宮聖徳法王帝説』などの538年の二説があり、教科書では両説を併記するのが一般的である)。

これを受け入れるかどうかをめぐって、蘇我稲目(いなめ)と物部尾輿(おこし)が対立した。

これがいわゆる崇仏(しょうぶつ)論争である。

蘇我氏は仏教を受け入れる立場をとり、物部氏は日本古来の神々を祀る祭祀の立場から反対したと伝えられる。

ただし、この対立を単純に「国際派 対 保守派」「進歩 対 反動」と整理することには注意が要る。

崇仏論争の背景には、祭祀権をどの氏族が握るかという氏族間の主導権争いの側面も指摘されている。

宗教対立そのものというより、政権内の勢力争いと結びついた論争として理解されている。

この対立は次の世代、蘇我馬子と物部守屋の代まで持ち越された。

丁未の乱と滅亡

585年に即位した用明(ようめい)天皇が仏教への帰依を望んだことで、崇仏論争は再び表面化した。

用明天皇の崩御後、皇位継承をめぐって蘇我馬子と物部守屋は対立し、双方が異なる皇子を擁立する構図となった。

587年、蘇我馬子は厩戸王(うまやとのおう、後の聖徳太子)ら諸皇子・諸豪族を率いて、河内国渋川(現在の大阪府東大阪市付近)の守屋の邸を攻めた。

これが丁未の乱である。

守屋は奮戦したものの敗れ、自害したと伝えられる。

この戦いで物部本宗家は事実上滅亡し、以後の政権では蘇我氏が大臣として中心的な地位を占めることになる。

なお、物部氏の系統すべてが滅んだわけではない。

傍系は石上(いそのかみ)氏などとして残り、後の壬申の乱(672年)や律令制下でも石上麻呂(まろ)のように要職に就く人物を出している。

後世への影響

物部氏の滅亡は、6世紀末から7世紀初頭にかけての政治再編の出発点となった。

蘇我馬子と厩戸王の主導のもとで、仏教を取り入れた国家づくりが進められ、推古朝の政治へとつながっていく。

一方、蘇我氏の権力は曽孫の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の代に至って強大となり、645年の乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足に打倒される。

物部氏が去った後の政権で、蘇我氏に集中した権力がやがて反発を呼ぶという展開は、古代の氏族政治が抱えた構造的な課題を示しているといえる。