舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子。
645年、中臣鎌足と謀って乙巳の変を起こし、蘇我氏本宗家を滅ぼした。
皇太子として大化改新を推進。
663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのち、九州北部の防衛強化と近江大津宮への遷都を進めた。
668年に即位して天智天皇となり、670年に最古の全国的戸籍庚午年籍を作成。
671年に崩御し、翌672年に皇位継承をめぐって壬申の乱が起きる。
生い立ち
626年(推古天皇34年)、舒明天皇と宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)の子として生まれた。
本名は葛城皇子。
同母弟に大海人皇子(後の天武天皇)がいる。
父の即位とともに皇位継承候補に位置づけられ、皇族の中枢で育った。
乙巳の変
当時、大臣の蘇我蝦夷とその子入鹿は皇位継承にまで介入し、643年には厩戸王(聖徳太子)の子・山背大兄王一族を滅ぼすなど権勢を強めていた。
中大兄皇子は中臣鎌足と謀り、打倒蘇我のクーデターを計画した。
645年6月12日(旧暦)、乙巳の変を実行。
飛鳥板蓋宮で朝鮮三国の使者を迎える儀式の場で蘇我入鹿を暗殺し、翌日には蝦夷も自害して蘇我本宗家は滅亡した。
大化改新の主導
変後、母の皇極天皇は譲位し、叔父の孝徳天皇が即位した。
中大兄皇子は皇太子として実権を握り、中臣鎌足を内臣(うちつおみ:天皇直属の最高補佐職)として、唐の制度に通じた高向玄理・旻を国博士として登用した。
同時に都を飛鳥から難波長柄豊碕宮へ遷した。
646年には改新の詔が出され、公地公民・国郡里制・班田収授・租庸調制の方針が示された。
これらの改革が大化改新である。
655年、孝徳天皇の死後に母が重祚して斉明天皇となった後も、皇太子のまま政務の中心であり続けた。
白村江の敗戦と防衛体制
660年、朝鮮半島で百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、百済復興を求める遺臣からの救援要請を受けて出兵を決定した。
661年、斉明天皇は遠征の途上、筑紫朝倉宮で崩御。
中大兄皇子は即位せず称制(即位せずに皇太子のまま政務を執ること)のまま政務を執った。
663年、白村江の戦いで倭国軍は唐・新羅連合軍に大敗し、百済復興は失敗した。
これを受けて、唐・新羅の来襲に備える防衛体制の構築を急いだ。
- 対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ)を配置
- 筑紫に水城(水を貯えた堤)を築造
- 大野城・基肄(きい)城などの朝鮮式山城を九州・瀬戸内に整備
近江遷都と即位
667年、都を飛鳥から近江大津宮へ遷した。
内陸への遷都には、敗戦後の防衛上の意図と、旧豪族の本拠地から離れて改革を進める狙いがあったとされる。
668年、正式に即位して天智天皇となった。
同年に近江令が編纂されたと『日本書紀』は伝えるが、現存せず、内容や実在性については議論がある。
天智天皇の治世
670年、日本最古の全国的戸籍である庚午年籍を作成した。
これは公地公民制の前提となる人民把握の基礎台帳であり、以後の班田収授制度の出発点となった。
庚午年籍は氏姓の根拠台帳としても、後世まで参照され続けた。
近江朝廷では、藤原鎌足(669年に「藤原」姓を賜る)が中核を担ったほか、皇族・豪族を再編して中央集権体制の基礎を固めた。
死と壬申の乱への伏線
671年、子の大友皇子を太政大臣に任じ、皇位継承の意思を示した。
これに対し、弟の大海人皇子は出家して吉野に退いた。
同年12月、天智天皇は近江大津宮で崩御した。
翌672年、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子が対立し、壬申の乱が勃発する。