SUMMARY

律令国家とは、律(刑法)と令(行政法)を法的根拠として統治する中央集権的国家体制のことである。

日本では7世紀後半の乙巳の変大化改新を出発点として整備が進み、701年の大宝律令の制定によって完成した。

天皇を頂点に二官八省が政務を担い、全国を国・郡・里に分けて国司が統治する仕組みは、古代国家の基本的な統治構造となった。

土地・人民を原則として国家が管理する公地公民制と、それに基づく租庸調の税制が体制を支えた。

律令とは何か

律令国家の「律」とは刑事法(罪と罰を定めたもの)、「令」とは行政法・民事法(官職・礼式・土地・税などの規定)を指す。

これらは唐の「唐律疏議」「唐令」をモデルとして整備された。

日本の律令は、唐の制度を機械的に移植したものではなく、日本の慣習・社会構造に合わせた独自の変容を加えている。

天皇の権威を宗教的に支える神祇官が太政官と並置されたのはその一例である。

律令国家の形成過程

乙巳の変(645年)で蘇我本宗家が滅亡した後、孝徳天皇のもとで翌646年に「改新の詔」が発せられた。

公地公民・国郡里制・班田収授・新たな税制の方針が示された(地方区分は当時「評(こおり)」が用いられ、「郡」表記は701年の大宝律令以降に定着した)。

これが律令国家形成の出発点となった。

672年、天智天皇の死後に壬申の乱が起き、天武天皇が即位した。

天武朝は皇権の強化と律令編纂を強力に推進し、689年には飛鳥浄御原令が持統天皇によって施行された。

701年、刑部親王・藤原不比等らが大宝律令を完成させた。

これが日本初の本格的な律令であり、律令国家の法的根拠が整った。

その後、718年に藤原不比等が養老律令を編纂し(施行は757年)、律令体制はさらに精緻化された。

形成の流れ

  • 645年 乙巳の変 → 蘇我本宗家の滅亡
  • 646年 改新の詔 → 公地公民・国郡里制を宣言
  • 672年 壬申の乱 → 天武天皇即位・皇権強化
  • 689年 飛鳥浄御原令の施行 → 律令国家の制度的基盤
  • 701年 大宝律令の制定 → 律令国家の完成
  • 718年 養老律令の編纂 → 律令体制の精緻化(施行は757年)

統治機構と地方支配

律令国家の中央統治機構は二官八省を基本とする。

太政官は最高の行政機関で、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言らによって構成された。

神祇官は祭祀を専管し、太政官と並ぶ最高機関として位置づけられた。

八省(中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)が各行政分野を分担した。

地方は国・郡・里の三段階に編成された。

国には中央から国司(四等官制:守・介・掾・目)が派遣され、郡には地方豪族出身の郡司が任命された。

里には里長が置かれ、末端の行政と徴税を担った。

土地制度と税制

律令国家の経済基盤は公地公民制にあった。

土地と人民は原則として天皇(国家)に属するとされ、私有は認められなかった。

この原則のもと、班田収授法が実施された。

6年ごとに作成される戸籍・計帳に基づき、6歳以上の良民男子に口分田2段、女子にその3分の2が支給された。

死後は国家に返還(収公)される仕組みである。

税制は租・庸・調・雑徭の四種類で構成された。

  • (そ):口分田の収穫の約3%を稲で国衙に納める
  • (よう):都での労役(年10日)の代わりに布を納める
  • 調(ちょう):絹・糸・布・地方特産物を都に納める
  • 雑徭(ぞうよう):国衙での労役(年60日以内)
律と令の覚え方

「律は刑事・令は行政」と区別して覚えるとよい。

現代でいえば、律は刑法・刑事訴訟法に相当し、令は行政法・民法の役割を果たした。

受験では「大宝律令」「養老律令」の制定年と編纂者(藤原不比等)がよく問われる。