SUMMARY

織豊政権とは、織田信長と豊臣秀吉が戦国の争乱を収めて全国統一を進めた時代の政権である。

検地・石高制・兵農分離などの政策で近世社会の土台を築き、中世の武家政権から江戸幕府へと移る橋渡しの役割を果たした。

織豊政権とは

織豊政権(しょくほうせいけん)とは、織田信長豊臣秀吉の二人が、戦国の争乱を収めて全国統一を進めた時代の政権を指す言葉である。

16世紀の後半から17世紀の初めにかけての時期にあたり、鎌倉・室町と続いた中世の武家政権から、江戸幕府による近世社会へと移る、その橋渡しの役割を果たした。

名称の由来

「織豊」とは、織田の「織」と豊臣の「豊」を組み合わせた呼び方である。

この二人が政治の中心にあった時代は、信長の居城である安土城(あづちじょう)と、秀吉の居城である伏見城(ふしみじょう、桃山)にちなんで、安土桃山時代(あづちももやまじだい)とも呼ばれる。

織田信長の統一事業

尾張(おわり、現在の愛知県西部)の大名であった織田信長は、桶狭間の戦いで今川氏を破って頭角をあらわし、次々と敵対する勢力を退けていった。

信長は室町幕府の将軍を京都から追放して幕府を事実上滅ぼし、対立する仏教勢力とも戦って、天下統一を大きく前進させた。

しかし1582年、家臣の明智光秀にそむかれ、本能寺の変で自害し、統一の事業は道半ばで途切れた。

豊臣秀吉の全国統一

信長の死後、その後継者としての地位を固めたのが豊臣秀吉である。

秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破ったのち、各地の大名を従え、1590年に全国統一を完成させた。

秀吉は朝廷から関白(かんぱく、天皇を補佐する最高の官職)に任じられ、天皇の権威を後ろだてにして全国の大名に命令を下した。

政権の政策

織豊政権は、全国を支配するためのさまざまなしくみを整えた。

秀吉は太閤検地を行って田畑の生産力を統一した基準で測り直し、その結果を石高制として整えて、大名の領地や農民の年貢の基準とした。

さらに刀狩令によって農民から武器を取り上げ、武士と農民の身分を分ける兵農分離(へいのうぶんり)を進めた。

対外政策と宗教政策

秀吉は1587年にバテレン追放令を出してキリスト教の布教を制限し、翌1588年には海賊取締令を出して海上の秩序を整えた。

一方で南蛮貿易(なんばんぼうえき、ポルトガル・スペインとの貿易)は続けられ、対外的な利益は保たれた。

晩年には明の征服を目指して二度にわたり朝鮮へ出兵したが、目的を果たせないまま、秀吉の死とともに撤退した。

歴史的意義

織豊政権は、長く続いた戦国の争乱を収め、全国を一つの秩序のもとにまとめた点で大きな意味を持つ。

検地や石高制、兵農分離といった政策は、そのまま近世社会の土台となり、のちに徳川家康が開く江戸幕府へと受けつがれていった。