SUMMARY

文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が明の征服を目指して二度にわたり朝鮮に大軍を送った戦いである。

一度目を文禄の役(壬辰倭乱)、二度目を慶長の役(丁酉再乱)と呼ぶ。

いずれも目的を果たせず、秀吉の死とともに撤退し、豊臣政権が衰える一因となった。

文禄・慶長の役とは

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)とは、天下を統一した豊臣秀吉が、明(みん、当時の中国の王朝)の征服を目指して二度にわたり朝鮮に大軍を送った戦いである。

一度目を文禄の役(ぶんろくのえき)、二度目を慶長の役(けいちょうのえき)と呼ぶ。

朝鮮や中国では、この戦いを干支(えと、年をあらわす十二支などの組み合わせ)にちなんで壬辰・丁酉の倭乱(じんしん・ていゆうのわらん)と呼ぶ。

「倭」は日本を指す古い言い方である。

出兵の背景

1590年に全国統一を果たした秀吉は、その勢いをさらに海の外へ向けようとした。

秀吉は明の征服を構想し、その通り道にあたる朝鮮に対して、日本への服属と明への案内役を求めた。

朝鮮がこれに応じなかったため、秀吉は朝鮮への出兵を決断した。

文禄の役(壬辰倭乱)

文禄の役(ぶんろくのえき)とは、1592年に始まった一度目の朝鮮出兵である。

朝鮮では、この年の干支から壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ばれる。

日本の大軍は朝鮮半島に上陸し、当初は各地を次々と攻め進め、首都の漢城(かんじょう、現在のソウル)や平壌(ピョンヤン)にまで達した。

しかし、水軍を率いる李舜臣(りしゅんしん)の活躍によって日本側は海上の補給路をおびやかされ、各地では義兵(ぎへい、民衆が自発的に組織した軍)の抵抗も広がった。

やがて明が朝鮮を助けるために援軍を送ると、戦況は行き詰まった。

戦いが長引く中で、日本と明の間で講和(こうわ、戦いをやめるための話し合い)が進められ、いったん戦闘は収まった。

慶長の役(丁酉再乱)

慶長の役(けいちょうのえき)とは、1597年に始まった二度目の朝鮮出兵である。

朝鮮では、この年の干支から丁酉再乱(ていゆうさいらん)と呼ばれる。

いったん進められた講和の交渉が、双方の条件の食いちがいによって決裂したため、秀吉はふたたび朝鮮へ大軍を送った。

しかし今度は、朝鮮と明の軍による備えが整っており、日本軍は半島の南部で苦しい戦いを強いられた。

戦線は行き詰まり、双方に多くの犠牲を出しながら、戦いは長期化していった。

1598年に秀吉が亡くなると、日本軍は朝鮮からの撤退を決め、二度にわたる出兵はいずれも目的を果たせないまま終わった。

影響と意義

二度の出兵は、朝鮮の国土と人々に大きな被害をあたえ、日本と朝鮮の関係を長く冷え込ませた。

戦いを支えた諸大名も兵力や財力を大きく費やし、とくに西日本の大名の負担は重かった。

秀吉の死と出兵の失敗は豊臣政権の力を弱め、やがて実権は徳川家康へと移っていった。

この戦いは、織豊政権の対外政策の到達点であると同時に、その限界を示す出来事でもあった。