SUMMARY

1560年、桶狭間で今川義元を討ち、「天下布武」の印判を用いつつ、全国統一の事業を進めた。

1573年、室町幕府を滅ぼし、その後畿内平定を達成した。

天下人としての名声を高めたが、1582年、本能寺の変に倒れた。

生い立ちと尾張統一

織田信長は、天文3年(1534)に尾張国の織田信秀の子として生まれた。

当時の尾張では、守護の斯波氏の力が弱まり、織田氏内部でも争いが続いていた。

若いころの信長は、奇抜な行動から「うつけ」と呼ばれたと伝えられている。

父の死後、信長は家督を継ぎ、弟の織田信勝との対立や尾張国内の争いを制して、尾張の支配を固めた。

こうして信長は、尾張の一大名から戦国時代を代表する大名へと成長していった。

桶狭間の戦い

永禄3年(1560)、駿河・遠江・三河を支配する今川義元が大軍を率いて尾張へ進軍した。

これに対して信長は、兵力で劣りながらも今川軍を急襲した。

この戦いが桶狭間の戦いである。

信長は今川義元を討ち取り、今川軍を敗走させた。

この勝利によって信長の名は広まり、今川氏の勢力は大きく動揺した。

また、今川氏の支配下にあった松平元康、のちの徳川家康が自立するきっかけにもなった。

その後、信長は家康と同盟を結び、東方の安全を確保した。

美濃攻略と天下布武

桶狭間の戦いの後、信長は美濃国の斎藤氏を攻めた。

永禄10年(1567)、信長は稲葉山城を攻略し、城の名を岐阜城と改めた。

このころから信長は「天下布武」の印章を用いるようになった。

これは、武力によって天下を平定しようとする信長の姿勢を示すものとされる。

美濃を支配したことで、信長は尾張・美濃をもつ有力大名となり、京都へ向かう力を備えた。

足利義昭を奉じた上洛

永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて京都へ上った。

義昭は、室町幕府第13代将軍・足利義輝の弟であり、将軍の地位を目指していた人物である。

信長の支援によって義昭は第15代将軍となった。

しかし、実際に強い軍事力をもっていたのは信長であった。

やがて信長と義昭は対立するようになり、義昭は各地の大名に呼びかけて信長に対抗しようとした。

信長はこれに対して戦いを進め、京都周辺での支配を強めていった。

比叡山焼き討ちと一向一揆

信長は、抵抗する寺社勢力や一向一揆とも戦った。

元亀2年(1571)、信長は比叡山延暦寺を攻撃し、焼き討ちを行った。

延暦寺は宗教勢力であると同時に、政治的・軍事的な力も持っていた。

そのため、信長は延暦寺を反信長勢力の一つとみなした。

また、信長は長島一向一揆や石山本願寺とも長く戦った。

これらの戦いは、信長が従来の宗教勢力や地域勢力を抑え、支配を広げていく過程で重要であった。

室町幕府の滅亡

信長と足利義昭の対立は深まり、元亀4年(1573)、信長は義昭を京都から追放した。

これによって、足利尊氏以来続いた室町幕府は事実上滅亡した。

室町幕府の滅亡は、将軍を中心とする古い政治秩序が終わり、実力をもつ戦国大名が新しい支配を進める時代になったことを示している。

信長はその後も各地の反対勢力を倒しながら、天下統一を目指して勢力を広げていった。

長篠の戦い

信長の前に立ちはだかった有力大名の一つが、甲斐の武田氏であった。

天正3年(1575)、武田勝頼は三河の長篠城を攻めた。

これに対して信長は徳川家康とともに出陣し、長篠の戦いで武田軍を破った。

この戦いでは、鉄砲が効果的に使われたことで知られている。

長篠の戦いによって武田氏は大きな打撃を受け、信長と家康は東方の脅威を弱めることに成功した。

安土城と楽市・楽座

天正4年(1576)ごろ、信長は琵琶湖の近くに安土城を築いた。

安土城は、信長の権力を示す象徴的な城であり、政治や経済の中心としても重要であった。

また、信長は城下町で楽市・楽座を進めた。

楽市・楽座とは、市場での特権や独占をなくし、商人や職人が自由に活動しやすくする政策である。

これにより、商工業の発展を促そうとした。

信長の支配は、軍事力だけでなく、城下町や商業を重視した点にも特徴があった。

天下統一への進展

信長は、家臣を各地に派遣して勢力を広げていった。

羽柴秀吉は中国地方、明智光秀は丹波方面、柴田勝家は北陸方面を担当した。

天正10年(1582)には、信長は武田氏を滅ぼし、天下統一に近づいた。

しかし、毛利氏・上杉氏・長宗我部氏など、まだ信長に十分には従っていない大名も残っていた。

そのため、信長は天下統一を完成させた人物ではなく、統一目前まで進んだ人物と見るのが正確である。

本能寺の変

天正10年(1582)、信長は京都の本能寺に滞在していた。

そのとき、家臣の明智光秀が反乱を起こし、本能寺を攻撃した。

これが本能寺の変である。

信長は本能寺で自害し、49年の生涯を終えた。

本能寺の変の原因についてはさまざまな説があるが、はっきりした理由はわかっていない。

信長の死によって、織田政権による天下統一は中断された。

その後、羽柴秀吉が明智光秀を倒し、信長の後継者として台頭していった。

織田信長の歴史的意義

織田信長は、戦国時代の古い秩序を大きく変えようとした人物である。

室町幕府を事実上滅ぼし、寺社勢力や一向一揆と戦い、楽市・楽座によって商工業の発展を促した。

また、鉄砲の活用や安土城の築城など、後の豊臣秀吉や徳川家康につながる新しい支配の形を示した。

一方で、比叡山焼き討ちや一向一揆への攻撃に見られるように、信長の支配は強硬で、多くの犠牲もともなった。

信長は天下統一を完成させる前に倒れた。

しかし、信長が進めた政治・軍事・経済の改革は、豊臣秀吉による全国統一、さらに徳川家康による江戸幕府の成立へとつながっていった。