鎌倉幕府は、源頼朝を中心に東国武士がつくった武家政権である。
将軍と御家人の主従関係を基盤とし、守護・地頭を通じて全国へ支配を広げた。
承久の乱後には朝廷に対する優位を強め、武士の政治が本格化した。
背景
鎌倉幕府は、源頼朝を中心に東国の武士がつくった武家政権である。
平安時代末期、院政や平氏政権のもとで武士の力は中央政治に組み込まれていた。
1180年、以仁王の令旨をきっかけに源頼朝が挙兵し、東国武士をまとめて平氏と戦った。
1185年に平氏が滅亡すると、頼朝は全国に守護・地頭を置く権限を得て、武士を基盤とする支配を広げた。
幕府のしくみ
鎌倉幕府の中心には、将軍と御家人の主従関係があった。
御家人は将軍に忠誠を誓い、そのかわりに本領安堵や新恩給与といった保護を受けた。
本領安堵とは、先祖から受け継いだ土地の支配を将軍が認めることである。
新恩給与とは、戦功などに応じて新しい土地を与えることである。
幕府には政所・侍所・問注所が置かれ、御家人の統制、財政、裁判などを担った。
守護と地頭
守護は国ごとに置かれ、国内の御家人の統率や軍事・警察の役割を担った。
地頭は荘園や公領に置かれ、年貢の徴収や土地管理に関わった。
守護・地頭の設置によって、朝廷や荘園領主の支配が残る地域にも、幕府の力が入り込むようになった。
鎌倉幕府は朝廷をただちに消したわけではなく、京都の朝廷と鎌倉の幕府が並び立つ形で始まった。
執権政治と承久の乱
源頼朝の死後、将軍の力は弱まり、北条氏が執権として政治を主導した。
1221年、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとして承久の乱を起こしたが、幕府軍に敗れた。
この結果、幕府は京都に六波羅探題を置き、西国にも支配を広げた。
1232年には北条泰時が御成敗式目を制定し、御家人社会の裁判基準を明文化した。
鎌倉幕府は、武士が土地支配と軍事力をもとに政治を担う中世社会の出発点となった。