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平安時代

国風文化

この記事の目次
かんたん要約

国風文化は、平安時代中期を中心に、かな文字と和歌・物語、浄土教、寝殿造、大和絵、装束などが発達した宮廷文化である。

『古今和歌集』『源氏物語』、平等院鳳凰堂を軸に、信仰と貴族の暮らしまでまとめて解説する。

国風文化とは

国風文化とは、平安時代中期の10世紀から11世紀を中心に、宮廷の貴族社会で発達した文化である。

かな文字による和歌・物語・日記、浄土教の信仰、寝殿造の邸宅、大和絵や蒔絵などに特色がある。

「国風」という語から、中国文化を退けて日本独自の文化だけを作ったように見えるが、実際には漢字・漢文、仏教、唐の制度や美術を受け継ぎ、それらを日本の言語や貴族社会に合わせて展開させた文化である。

894年に遣唐使の派遣が停止された後も、中国との交流や文物の流入がなくなったわけではない。

しかし、朝廷の儀礼や貴族の生活が日本国内で定着するなかで、日本語の表現、四季の感覚、極楽往生への願いなどが、文学・建築・美術に結びついていった。

国風文化を、ことば・文学、信仰、住居・美術、宮廷生活の四分野に整理した図
図1 国風文化の全体像

図1では、国風文化を、ことば・文学、信仰、住居・美術、宮廷生活の四分野に整理した。

いずれも大陸から受け継いだ文字・仏教・制度や技法を基礎としながら、日本語と平安京の宮廷社会に合わせて展開したものである。

かな文字と和歌・物語

かな文字と勅撰和歌集

かな文字は、漢字をくずしたり一部を取ったりして、日本語の音を表すようにした文字である。

平仮名と片仮名が整うと、助詞や語尾を含む日本語の文章を、それまでより書き表しやすくなった。

女性だけの文字ではなく男性も使用したが、公式文書では漢文が重視されたため、宮廷女性の手紙や文学でかなが多く用いられた。

天皇の命令で編集された和歌集を勅撰和歌集という。

最初の勅撰和歌集が、醍醐天皇の命を受けて10世紀初めに編まれた『古今和歌集』である。

紀貫之らが撰者となり、四季、恋、別れ、旅などを題材とする和歌を収めた。

仮名で書かれた序文である仮名序も紀貫之が執筆したとされ、日本語で和歌の歴史や価値を論じた。

紀貫之は歌人としてだけでなく、かな文学の発達でも重要である。

土佐国司の任期を終えて京都へ帰る旅を記した『土佐日記』では、男性である作者が女性を語り手とする形を取り、かなで旅の出来事、和歌、亡くした娘への思いなどを表した。

物語文学と宮廷の女性

『竹取物語』は、竹から生まれたかぐや姫と、求婚する貴公子たち、月への帰還を描く物語で、「物語の祖」と呼ばれる。

『伊勢物語』は「むかし、男ありけり」で始まる短い章段に和歌を組み込んだ歌物語で、主人公には在原業平の像が重ねられてきた。

11世紀初めごろには、紫式部が『源氏物語』を著した。

光源氏とその周囲の人々を通して、宮廷の恋愛、家族、政治的立場、老い、死などを長い時間のなかで描いた作品である。

紫式部は藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった藤原彰子に仕え、彰子の後宮は『源氏物語』が読まれ、書き継がれる場の一つとなった。

一方、清少納言は彰子ではなく、一条天皇の后である藤原定子に仕えた。

清少納言の『枕草子』は、宮廷の行事や人間関係、季節の美しさ、機知に富む会話、好ましいものや不快なものを、随筆的な章段で記している。

『源氏物語』と『枕草子』は形式も視点も異なるが、どちらも宮廷女性の教養と観察をかなによって豊かに表した作品である。

神への信仰と怨霊への畏れ

平安時代の人々は、神社の祭祀や地域の神への信仰を受け継いだ。

これらは後世に神道と総称されるが、当時から一つの教義を持つ独立した宗教として固定されていたわけではない。

神への信仰と仏教は対立するだけでなく、寺院と神社、僧侶と神職、祭礼と仏事が結びつく神仏習合を進めた。

その説明の一つが本地垂迹説である。

仏を本来の姿である「本地」、日本の神を人々を救うために現れた仮の姿である「垂迹」と考えた。

こうした考えは平安時代に形成が進み、中世にさらに体系化された。

疫病、落雷、飢饉などの災いを、恨みを残して死んだ人の怨霊によるものと考える信仰も広がった。

朝廷や都市の人々は、怨霊を慰めて災いを鎮める御霊会を行った。

御霊会は、政治的に敗れた人の霊への畏れと、疫病を防ぎたいという都市社会の願いが結びついた祭礼である。

浄土教と極楽往生への願い

阿弥陀如来と念仏

浄土教は、阿弥陀如来(阿弥陀仏)の救いを信じ、死後に極楽浄土(阿弥陀浄土)へ生まれることを願う仏教信仰である。

このように別の世界へ生まれることを往生といい、とくに阿弥陀如来の浄土へ生まれることを極楽往生という。

阿弥陀如来を心に念じ、その名を唱える念仏も行われた。

代表的な称名念仏の言葉が「南無阿弥陀仏」であり、阿弥陀仏に帰依するという意味を持つ。

平安時代の浄土信仰には、念仏だけでなく、経典の読誦、仏像の造立、法会など多様な実践があった。

末法思想、空也、源信

末法思想とは、釈迦の死後、時代が下るにつれて仏の教えを正しく実践し、悟りを得ることが難しくなるという考えである。

その最後の時代を末法という。

日本では1052年が末法の初年に当たると考えられ、戦乱や疫病への不安とも重なって、阿弥陀如来の力により往生したいという願いを強めた。

10世紀の僧空也は、市や道を歩きながら「南無阿弥陀仏」と唱え、人々に念仏を勧めたことから「市聖」と呼ばれた。

空也が951年に開いた寺を起源とするのが、京都の六波羅蜜寺である。

念仏は貴族や大寺院の僧だけでなく、都市の人々にも伝えられていった。

比叡山の僧源信(恵心僧都)は、985年に『往生要集』を著した。

地獄の苦しみと極楽浄土の様子を対比し、極楽往生を願うための実践を整理した書である。

『往生要集』の具体的な描写は、貴族の信仰だけでなく、阿弥陀堂や来迎図などの浄土教美術にも影響を与えた。

寝殿造と国風の美術

寝殿造と東三条殿

寝殿造は、平安時代の上級貴族の邸宅にみられた建築と空間構成である。

中心となる寝殿を南向きに置き、その東西や北に対(対屋)を設け、廊で結んだ。

南には池や遣水を配した庭を設け、儀式や宴、舟遊びなどにも用いた。

壁で固定的に区切るのではなく、御簾、屏風、几帳などで広い室内を必要に応じて仕切った。

代表例として、摂関家に伝えられた東三条殿(東三条邸)が知られる。

建物そのものは残っていないが、古記録や平面図をもとに復元研究が進められ、寝殿造と貴族の儀礼を考える手がかりになっている。

大和絵・蒔絵・三跡

日本の風景、四季、年中行事、物語などを主題とする絵は大和絵と呼ばれ、中国を題材とする唐絵と区別された。

ただし、両者は完全に切り離されたものではなく、大陸由来の技法を受け継ぎながら日本の題材を描いた。

漆器では、漆の表面に金銀の粉をまいて文様を表す蒔絵が発達し、貴族の調度や仏具を飾った。

書では、和様の書を代表する三跡(三蹟)が知られる。

小野道風(おののみちかぜ/とうふう)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ/さり)、藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい)の三人である。

中国の書を学びながら、かな文字や日本の宮廷生活に合う、やわらかく整った筆跡が重んじられた。

阿弥陀堂と平等院鳳凰堂

浄土信仰の広がりにより、阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂が各地に建てられた。

藤原頼通は1052年、父道長から受け継いだ宇治の別荘を寺院に改めて平等院を創建し、翌1053年に阿弥陀堂を建立した。

これが現在の平等院鳳凰堂である。

「鳳凰堂」という呼び名は後世に定着したもので、池を隔てて西方の極楽浄土を望む空間が構成されている。

堂内の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(阿弥陀如来坐像)は、仏師定朝の作と確認できる現存唯一の仏像である。

複数の木材を組み合わせて造る寄木造により、大きな像を分担して制作しやすくし、木材の割れや狂いも抑えた。

定朝の穏やかで均整の取れた阿弥陀如来像は、その後の仏像制作の手本となった。

来迎図

阿弥陀如来と菩薩たちが、臨終の人を極楽浄土へ迎えるために雲に乗って現れる場面を描いた仏画を来迎図という。

来迎という目に見えない救いを具体的な姿にすることで、往生を願う人々は臨終の場面を思い描くことができた。

代表作の一つが、現在は高野山霊宝館に寄託されている国宝の〔高野山〕阿弥陀聖衆来迎図である。

三幅の大画面に、阿弥陀如来と多くの聖衆が雲に乗って現世へ来迎する様子を描き、右幅下部には大和絵の山水表現も見られる。

装束・年中行事・生活の規範

宮廷では身分、役職、儀式に応じて装束が定められた。

束帯は男性官人が朝廷の儀式で着用する正装である。

宮中に仕える女性の正装は女房装束といい、後世には十二単という名で広く知られた。

ただし「十二単」は俗称であり、衣を必ず十二枚重ねたという意味ではない。

季節や儀式に合わせて色の重なりや組み合わせを選ぶことも、宮廷文化の教養であった。

正月の行事、節会、賀茂祭など、一年を通じて繰り返される朝廷の儀式や行事を年中行事という。

貴族の生活は、日付や方角の吉凶を判断する陰陽道の知識にも左右された。

陰陽師の判断によって、外出を控える物忌や、悪い方角を避ける方違えが行われた。

死、血、病気などに触れた状態は穢(けがれ。

通常は「穢れ」と書く)と考えられ、一定期間、神事や宮中への参加を避けたり、祓いや清めを行ったりした。

穢れは単純な道徳上の罪や衛生上の汚れではなく、儀礼の秩序を乱す状態として理解された。

年中行事、陰陽道、穢れの観念は、貴族がいつ、どこへ行き、どの儀式に参加するかという日常の判断にも関わっていた。

まとめ

国風文化は、かな文字を基礎に『古今和歌集』『土佐日記』『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』などを生み、宮廷の経験を日本語で表現する方法を広げた。

神道と仏教は神仏習合のなかで結びつき、怨霊を慰める御霊会や、阿弥陀如来の極楽浄土への往生を願う浄土教が人々の不安と祈りに応えた。

その信仰は、空也の念仏、源信の『往生要集』、阿弥陀堂、平等院鳳凰堂、定朝の阿弥陀如来像、来迎図という形でも表現された。

寝殿造、大和絵、蒔絵、三跡、束帯や女房装束、年中行事も含め、国風文化は文学や美術だけでなく、住まい、信仰、儀礼を結ぶ宮廷社会の文化であった。

出典・参考文献