薩英戦争は、1863年に生麦事件の処理をめぐって薩摩藩とイギリスが鹿児島湾で戦った戦いである。
双方が損害を受けたのち和解し、薩摩藩は攘夷から近代化・倒幕へと路線を転換していった。
生麦事件と攘夷運動
薩英戦争は、文久3年(1863)に薩摩藩とイギリスとの間で起こった戦いである。
直接のきっかけは、前年の文久2年(1862)に起きた生麦事件であった。
薩摩藩主の父で藩政を主導していた島津久光の行列が、武蔵国の生麦村(現在の横浜市)にさしかかったとき、行列を横切ったイギリス人商人リチャードソンらを薩摩藩士が殺傷した。
この事件でイギリス人1名が死亡し、数名が負傷した。
当時の日本では、天皇を尊び外国勢力を退けようとする尊王攘夷の考えが広まり、外国人との衝突が各地で起きていた。
イギリスは幕府と薩摩藩に対し、責任者の処罰と賠償金の支払いを求めた。
幕府はイギリスへの賠償金を支払ったが、薩摩藩は要求に応じなかった。
戦闘の経過
交渉が進まないなか、文久3年(1863)7月、イギリス東洋艦隊の艦船7隻が鹿児島湾に来航した。
イギリス側は圧力をかけるため薩摩藩の汽船を差し押さえ、これをきっかけに両者の砲撃戦が始まった。
戦闘は台風が近づく悪天候のなかで行われ、二日ほど続いた。
薩摩側は沿岸の砲台から艦隊を砲撃し、イギリス側は旗艦の艦長らが戦死するなどの損害を受けた。
一方で薩摩側も砲台が破壊され、艦隊の砲撃によって鹿児島の市街地の一部が焼失した。
双方が相応の損害を受けたまま、イギリス艦隊は鹿児島湾を離れて横浜へ引き揚げた。
講和と賠償
戦闘のあと、薩摩藩とイギリスは横浜で講和交渉に入った。
薩摩藩は賠償金を支払うことに同意したが、その資金は幕府から借り入れる形で用意された。
生麦事件の責任者処罰については、明確な決着がつかないまま曖昧に処理された。
講和の過程で、薩摩藩とイギリスは互いの実力を認め合い、対立から接近へと関係を変えていった。
薩摩藩はイギリスを通じて軍艦や武器を購入するなど、両者の結びつきはむしろ深まった。
影響と意義
薩英戦争は、薩摩藩の政策に大きな転換をもたらした出来事とされる。
近代的な軍事力を持つ列強と直接戦った経験から、薩摩藩の中では、外国をただ武力で退ける攘夷の実現は難しいという見方が強まった。
その後、薩摩藩は西洋の技術や制度を積極的に取り入れ、軍備の近代化や富国強兵を進める方向へと動いていく。
イギリスとの関係が深まったことは、のちに薩摩藩が幕府と距離を置き、倒幕へ向かう動きを支える一因ともなった。
同じ時期に長州藩も下関で列強と戦って敗れており、両藩が攘夷から現実的な路線へ転じたことは、明治維新へとつながる流れの一部として位置づけられる。