SUMMARY

英国(イギリス、正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)は、ヨーロッパ北西部に位置する島国である。

立憲君主制と議会政治の母国として知られ、16世紀以降は海洋へ乗り出し、世界各地に通商網や植民地を広げた。

日本とは江戸時代初期に接触したが、オランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退。

幕末の開国を経て関係が再構築され、1902年の日英同盟は近代日本の国際的地位を大きく高めた。

英国

国の基礎データ

英国は、ヨーロッパ大陸の北西、ドーヴァー海峡を挟んでフランスと向かい合う島国である。

正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom)」で、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの四つの地域からなる連合国家である。

首都はロンドン。

政治体制は立憲君主制(憲法や法に基づき君主の権限が制限される君主制)をとり、君主は「君臨すれども統治せず」の原則のもとで象徴的な存在にとどまる。

実際の政治は、議会(とりわけ下院)に責任を負う内閣が担う。

この議会政治と議院内閣制は英国で発達したものであり、明治期の日本が憲法や議会制度を整える際に参照した制度の一つでもあった。

海洋国家への道

16世紀、英国は宗教改革(ローマ教皇の権威から離れる教会改革)を経て独自の道を歩み始めた。

1534年、国王ヘンリ8世は首長法を定めてイギリス国教会を創設し、ローマ教皇の統制を脱した。

1588年にはスペインの無敵艦隊(アルマダ)を撃破し、大西洋での活動を広げる足掛かりを得た。

1600年、英国は東インド会社(アジア貿易を独占的に担う特許会社)を設立し、アジア貿易に乗り出した。

しかし東アジアの貿易ではオランダとの抗争に敗れ、やがて主力をインドなどアジア西方へ移していく。

こうした動きが、まもなく日本との接触をもたらすことになる。

日本との最初の出会い

日本と英国の関わりは、江戸時代の初めに始まる。

1600年、オランダ船リーフデ号が豊後(ぶんご、現在の大分県)に漂着し、乗船していた英国人ウィリアム=アダムズ(日本名・三浦按針〈みうらあんじん〉)が徳川家康に登用された。

アダムズは外交・貿易の顧問として家康に仕え、両国を結ぶ役割を果たした。

1613年、英国は平戸(ひらど、現在の長崎県)に商館を開いて対日貿易を始めた。

しかし、すでに平戸で貿易を行っていたオランダとの競争に敗れ、利益を上げられないまま1623年に商館を閉じて日本から撤退した。

以後、英国は対日貿易よりインド経営に重点を移し、日本との関係はおよそ二世紀にわたって途絶える。

再来航と開国

英国が再び日本に接近するのは、19世紀に入ってからである。

1808年にはフェートン号事件が起き、英国軍艦が長崎港に侵入してオランダ商館員を人質にとり、食料や薪水を要求した。

この事件は、ヨーロッパでのナポレオン戦争(英仏などが争った大規模戦争)が東アジアに及んだものであり、日本に海防の必要を強く意識させた。

幕末になると、英国は欧米列強の一員として日本に開国を迫った。

1858年、日本は英国とも修好通商条約を結ぶ。

1862年の生麦事件(薩摩藩の行列を横切った英国人を藩士が殺傷した事件)をきっかけに、翌1863年には薩英戦争が起こり、鹿児島が英国艦隊の砲撃を受けた。

この戦いを通じて薩摩藩は英国の軍事力を認識し、以後は英国に接近して軍備の近代化を進めた。

英国は幕末の政治にも影響を与え、薩摩藩などと関係を深めた。

日英同盟と近代日本

明治期に入ると、英国は日本にとって最も重要な相手国の一つとなった。

1902年、両国は日英同盟を結ぶ。

これは、ロシアの東アジアでの勢力拡大を警戒する両国が利害を一致させたもので、英国にとっては「光栄ある孤立」と呼ばれた従来の外交方針を転換する画期となった。

日本にとっては、列強と対等に同盟を結んだ初めての事例であり、その国際的地位を大きく高めた。

この同盟は、日露戦争(1904〜05年)において日本を外交的に支えた。

第一次世界大戦(1914〜18年)では、日本は日英同盟を根拠に連合国側で参戦し、東アジアや太平洋のドイツ拠点を攻撃した。

戦後・現代の日英関係

日英同盟は、1921年からのワシントン会議を経て1923年に解消された。

その後、両国は次第に対立を深め、第二次世界大戦では敵対することとなる。

戦後は関係が修復され、現在の英国と日本は、自由や民主主義の価値を共有する友好国として、政治・経済・文化の各面で結びついている。