廃藩置県は、1871年に明治政府が藩を廃止して県に改め、地方官を政府が任命する体制にした改革である。
版籍奉還で旧藩主が知藩事となった後、藩が廃止された経過と、府県の再編、教育・財政への影響を解説する。
廃藩置県(はいはんちけん)は、1871年(明治4年)に明治政府が全国の藩を廃止して県に改め、府と県の長官を政府が任命する形で地方を統治することにした改革である。
江戸時代から続いた「藩ごとに治める」しくみを終わらせ、地方統治を大きく転換させた。
ただし、府県の数や区分はこの後も整理が続いており、中央集権的な体制は段階的に整えられていった。
この記事では、2年前の版籍奉還(はんせきほうかん)との違いに注目しながら、廃藩置県の背景、経過、その後への影響を順に見ていく。
背景
江戸時代の日本は、幕府の直轄地のほか、大名が治める約300の藩に分かれていた。
藩は、領地の政治や家臣(藩士)の維持を、それぞれ独自に行っていた。
教育も諸藩が独自に行っており、全国共通の制度をつくることは難しかった。
明治新政府は、藩の統治制度を改める過程で、まず1869年(明治2年)に版籍奉還を行った。
「版」は土地、「籍」は人民を意味する。
薩摩・長州・肥前・土佐の藩主が土地と人民を天皇に返すことを願い出ると、ほかの藩主も続いた。
同年6月以降、ほとんどの旧藩主は、旧藩の知藩事(ちはんじ)に任命された。
知藩事は世襲ではなく、政府の直轄地と同様の政策を行う地方行政官とされた。
しかし、知藩事を務めたのは旧藩主であり、藩の組織や藩士も残った。
各藩がそれぞれ政治を行う状態は続いており、政府が全国を直接治める体制とは言えなかった。
展開
版籍奉還から府県の統合までの経過は図1のとおりである。
なお、本文の月日は旧暦で示し、廃藩置県の詔が下された日にのみ新暦を添える。
1871年(明治4年)に入ると、政府は薩摩・長州・土佐の3藩から兵を集めて御親兵(ごしんぺい)とし、東京に置いた。
反対する勢力が現れても抑えられるだけの軍事力を、政府が自ら備えるためである。
この力を背景に、7月14日(新暦1871年8月29日)、知藩事に対して廃藩置県の詔(みことのり)が下された。
詔によって藩は廃止され、すべて県に改められた。
知藩事はすべて免じられ、東京に住むよう命じられた。
かわって、政府が任命する府知事・県知事(のちに県令)が府県の政治を行うことになった。
全国は、従来の府とあわせて3府302県となった。
ただし、このときの県は藩をそのまま置き換えたものだったため、数が多く、飛び地も残っていた。
そこで政府は統合を進め、同年11月までに、旧来の国や郡を単位とする3府72県へ再編した。
版籍奉還と廃藩置県の違いは、次のように整理できる。
| 比べる点 | 版籍奉還(1869年) | 廃藩置県(1871年) |
|---|---|---|
| 内容 | 藩主が土地と人民を天皇に返す | 藩を廃止し、県に改める |
| 旧藩主の立場 | 知藩事となり、旧藩に残る | 知藩事を免じられ、東京に住む |
| 地方の政治 | 非世襲の知藩事が政府の政策を行うことを求められた。藩は残る | 政府任命の府知事・県知事が担う |
| 位置づけ | 藩の統治を改める第一段階 | 藩をなくし、地方統治を切り替えた改革 |
影響
廃藩置県によって藩は消え、地方の政治は政府が任命する府知事・県知事が担うようになった。
府県の区分はその後も再編が続き、統治のしくみは少しずつ整えられていった。
教育の面では、諸藩が独自に行ってきた教育を、政府が全国にわたって統轄できるようになった。
政府は廃藩置県の後まもなく文部省を置き、翌1872年(明治5年)に学制を発布して、近代的な学校制度をつくった。
財政の面では、政府が旧藩士の家禄(かろく)と藩債(藩の借金)を引き継いだ。
家禄とは、江戸時代から続く、藩士らへの給与にあたるものである。
これは政府にとって財政負担となり、家禄の見直しが検討された。
政府は1876年、公債証書を与えて、家禄と賞典禄(維新の功績に対する禄)をすべて廃止した。
これを秩禄処分(ちつろくしょぶん)という。
まとめ
版籍奉還では、非世襲の知藩事が政府の政策を行うことを求められたが、旧藩主と藩の組織は残った。
廃藩置県は、藩そのものをなくして県に改め、地方統治を政府任命の府知事・県知事に切り替えた点で異なる。
一方で、府県の再編や家禄の整理は、その後も続く課題であった。