サイト

目次

平安時代後期

平治の乱

この記事の目次
かんたん要約

平治の乱は、1159年、後白河上皇の近臣である信西と藤原信頼の対立を背景に、藤原信頼・源義朝らが挙兵した内乱である。

平清盛がこれを破り、源氏の主力は衰退し、平氏が中央政治で勢力を強める契機となった。

平治の乱とは

平治の乱は、1159年(平治元年)、後白河上皇の近臣である信西と藤原信頼の対立を背景に、藤原信頼と源義朝らが京都で挙兵した内乱である。

藤原信頼・源義朝方は一時、後白河上皇と二条天皇を支配下に置いたが、熊野参詣から戻った平清盛に敗れた。

この乱によって源義朝を中心とする河内源氏の勢力は大きく後退し、平清盛を中心とする平氏が中央政治で勢力を強めた。

ただし、平治の乱が終わった時点で武家政権が完成したわけではない。

清盛はその後、朝廷の官職や天皇家との関係を利用して政治的地位を高めていった。

背景

保元の乱後の政治

1156年の保元の乱では、後白河天皇方についた平清盛と源義朝が勝利した。

乱後は、後白河天皇の近臣である信西が政治の中心となった。

1158年に後白河天皇が退位して上皇となり、二条天皇が即位した後も、信西は朝廷内で強い影響力を持った。

一方、同じく後白河上皇に近侍した藤原信頼は信西と対立し、源義朝と結びついた。

保元の乱で同じ陣営にいた清盛と義朝も、平治の乱では敵味方に分かれることになる。

後白河上皇の近臣である信西と藤原信頼が対立し、藤原信頼が源義朝と結び、帰京した平清盛が信頼・義朝方を破る関係図
図1 平治の乱の主な人物関係

図1では、後白河上皇の近臣である信西と藤原信頼の対立、信頼と源義朝の連携、帰京した平清盛が信頼・義朝方を破る関係を示している。

朝廷の対立と武士

この時期の武士は、朝廷から独立して全国を支配していたわけではない。

院政を行う上皇や天皇、貴族に仕え、その軍事力によって政治上の対立に関わっていた。

平治の乱も、武士同士の争いだけを原因とするものではない。

後白河上皇の近臣間の対立に、平清盛や源義朝らの武力が組み込まれたことで、京都での合戦へ発展した。

主な人物と立場

平治の乱の主な人物と乱での動き
人物 立場 乱での動き
信西(藤原通憲) 藤原信頼と対立 保元の乱後の政治を主導。襲撃後に京都を逃れ、自害した。
藤原信頼 信頼・義朝方の中心 源義朝と結んで挙兵し、信西を排除しようとした。
源義朝 藤原信頼方 三条殿を襲撃したが、平清盛に敗れた。
平清盛 信頼・義朝方を追討 熊野参詣から京都へ戻り、信頼・義朝方を破った。
後白河上皇・二条天皇 朝廷の中心 一時身柄を押さえられたが、のちに信頼方の支配を離れた。

平治の乱の経過

平清盛が京都を離れた時期の挙兵から、三条殿襲撃、後白河上皇と二条天皇の拘束、清盛の帰京と反撃、藤原信頼・源義朝方の敗北までを5段階で示した図
図2 平治の乱の経過

図2では、平清盛が京都を離れた時期の挙兵から、三条殿襲撃、後白河上皇・二条天皇の拘束、清盛の帰京と反撃、藤原信頼・源義朝方の敗北までを順に示している。

三条殿の襲撃

平清盛が熊野参詣のため京都を離れていた時期に、藤原信頼と源義朝らは挙兵した。

源義朝らは後白河上皇の御所である三条殿を襲い、火を放って後白河上皇を連れ出した。

二条天皇も支配下に置かれ、信西は京都から逃れた後に自害した。

藤原信頼は朝廷の官職を味方へ与えて政治の主導権を握ろうとした。

しかし、後白河上皇や二条天皇を支配下に置いたことだけで、朝廷全体の支持を得られたわけではなかった。

平清盛の反撃

知らせを受けた平清盛は京都へ戻った。

二条天皇や後白河上皇が藤原信頼方の支配を離れると、信頼・義朝方は政治的な根拠を失った。

清盛は朝廷から信頼・義朝方を追討する立場を得て攻撃し、六条河原などで義朝方を破った。

藤原信頼は捕らえられて処刑された。

源義朝は東国へ逃れる途中、尾張国で殺害された。

義朝の子である源頼朝は伊豆国へ流され、河内源氏の中央での勢力は大きく後退した。

平治の乱で何が変わったのか

平清盛と平氏の台頭

平治の乱に勝利した清盛は、朝廷内で軍事力を担う有力者としての地位を高めた。

清盛は貴族として昇進を続け、1167年には武士として初めて太政大臣となった。

平氏一門も高い官職につき、天皇家との婚姻関係を築いて政治への影響力を強めていった。

そのため平治の乱は、平氏政権へつながる重要な出来事と位置づけられる。

ただし、清盛が乱の直後から朝廷を一方的に支配したのではなく、後白河上皇や有力貴族との協力と対立を重ねながら権力を拡大した点に注意が必要である。

源頼朝と鎌倉幕府へのつながり

平治の乱で伊豆へ流された源頼朝は、約20年後の1180年に平氏打倒のため挙兵した。

頼朝は東国の武士をまとめ、のちに鎌倉幕府を開いた。

平治の乱は平氏の台頭を促した一方、敗れた源氏の後継者である頼朝が伊豆で生き残り、後の武家政権へつながる出発点にもなった。

保元の乱から平治の乱へ

保元の乱から鎌倉幕府成立へ至る主な出来事
出来事 政治の変化
1156年 保元の乱 朝廷内部の対立が武士を動員した合戦で決着した。
1158年 二条天皇が即位 後白河天皇は上皇となり、院政を始めた。
1159年 平治の乱 平清盛が藤原信頼・源義朝方を破り、平氏の地位が上昇した。
1167年 平清盛が太政大臣に就任 平氏一門が朝廷内で勢力を広げた。
1180年 源頼朝が挙兵 治承・寿永の乱を経て、鎌倉幕府の成立へ向かった。

まとめ

平治の乱は、保元の乱後に生じた後白河上皇の近臣間の対立から始まり、藤原信頼・源義朝方と、京都へ戻った平清盛方が争った内乱である。

藤原信頼・源義朝方は敗れ、清盛を中心とする平氏が中央政治で勢力を強めることになった。

一方、源義朝の子である頼朝は伊豆へ流され、のちに東国で挙兵して鎌倉幕府を開いた。

保元の乱、平治の乱、平氏政権、鎌倉幕府という順に見ることで、朝廷の内部対立に動員されていた武士が、政治の担い手へ近づいていく過程を理解できる。

出典・参考文献