摂関政治は、平安時代中期に藤原北家が摂政・関白として朝廷政治を主導した政治形態である。
藤原氏は天皇の外戚となることで権力を強め、藤原道長・頼通の時代に頂点を迎えた。
荘園を経済基盤とし、のちに院政へと移っていく。
背景
平安時代前期、律令国家のしくみは残りながらも、実際の政治では有力貴族の力が強まっていった。
なかでも藤原北家は、天皇の外戚となることで朝廷内の地位を高めた。
外戚とは、天皇の母方の親族のことである。
藤原氏は娘を天皇の后とし、その子が天皇になると、幼い天皇を補佐する摂政、成人した天皇を補佐する関白として政治を動かした。
成立と展開
858年、藤原良房は清和天皇の外祖父として政治を主導し、のちに正式な摂政となった。
その後、藤原基経が関白の地位を固め、摂政・関白を中心とする政治の形が定着した。
10世紀後半から11世紀前半にかけて、藤原道長・頼通の時代に摂関政治は頂点を迎えた。
道長は娘たちを天皇の后とし、三代の天皇の外戚となって朝廷内で強い影響力を持った。
頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立し、貴族文化の象徴的存在ともなった。
荘園と受領
摂関政治を支えた背景には、貴族や寺社が広げた荘園の存在があった。
荘園は有力者の保護を受けながら税の免除や国司の立ち入り拒否を認められるようになり、中央貴族の経済基盤となった。
一方で地方では、国司として赴任した受領が徴税や支配を担い、地方社会との結びつきを強めた。
こうした地方支配の変化は、武士が成長する土台にもなった。
変化と意義
11世紀後半になると、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、摂関家の力はしだいに弱まった。
その後、白河上皇が院政を始めると、政治の中心は摂関家から上皇の院へ移っていった。
摂関政治は、律令国家の官職を利用しながら、婚姻関係と荘園を通じて貴族が実権を握った政治である。
受験では、藤原良房・基経・道長・頼通の流れと、摂関政治から院政への変化をつなげて押さえるとよい。