1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度にわたる元(モンゴル帝国)と高麗の軍による日本への襲来。
8代執権の北条時宗のもとで御家人が九州北部で迎え撃った。
いずれも暴風雨などにより元軍は退いたが、幕府は恩賞となる新たな土地を得られず、御家人の負担が残った。
モンゴル帝国の伸長と日本への使者
13世紀、チンギス=ハンとその後継者のもとでモンゴルはユーラシアの広い範囲を支配下に置いた。
5代のフビライ=ハンは都を大都(現在の北京)に移し、国号を元と定めた。
元は1259年に高麗を服属させ、朝鮮半島を通じて日本へ使者を送るようになった。
1268年、日本へ届いた国書は通交を求める内容であったが、応じなければ兵を用いる意も記されていた。
朝廷では返書を用意する動きもあったが、幕府はこれを退け、返書を出さない方針をとった。
当時18歳で8代執権となった北条時宗のもとで、幕府は九州の御家人に警戒を命じた。
高麗では三別抄と呼ばれる軍が元への服属に反対して抵抗を続けており、1271年には日本へ援軍を求める文書も届いた。
元による日本への出兵は、この抵抗が鎮められたのちに実行された。
文永の役
1274年(文永11年)、元と高麗の軍およそ3万が朝鮮半島を出発した。
軍はまず対馬と壱岐を襲い、両島の守護代らは敗れた。
続いて博多湾に上陸し、九州の御家人を率いる少弐氏や大友氏らの軍と戦った。
日本側は博多の町から大宰府の方面へ退いて防戦した。
元軍は集団で戦う戦法をとり、てつはうと呼ばれる火薬を用いた武器も使ったと伝えられる。
一騎討ちを主とする戦い方に慣れていた御家人は苦戦したが、元軍も一日の戦闘ののち船へ引き上げた。
その後、元軍は日本を去った。
撤退の理由については、暴風雨による損害、矢や食料の不足、当初から偵察を目的としていたなど、複数の説がある。
戦いに備えた体制
文永の役ののち、幕府は再度の襲来に備えて九州沿岸の守りを固めた。
異国警固番役として、九州の御家人に交代で沿岸を警備させた。
1276年からは博多湾の沿岸におよそ20キロメートルにわたる石築地(防塁)を築かせた。
この工事や警備の費用は御家人みずからが負担した。
幕府は御家人に石築地の担当区間を割り当て、所領の広さに応じて分担させた。
幕府は長門の警備も強め、西国の御家人でない武士を動員する権限も広げた。
弘安の役
1281年(弘安4年)、元は南宋を滅ぼしたのち、二つの軍を日本へ向けた。
朝鮮半島から出た東路軍がおよそ4万、旧南宋の水軍を中心とする江南軍がおよそ10万であった。
東路軍は博多湾へ迫ったが、石築地に阻まれて上陸できず、志賀島などで戦った。
両軍は肥前の鷹島付近で合流したが、まもなく暴風雨に遭い、多くの船と兵を失った。
日本側の武士は残った軍を攻め、元軍は退いた。
伊予の御家人である河野通有のように、船で敵陣へ攻め入った武士の働きも記録に残る。
この2度の襲来をあわせて元寇、または蒙古襲来と呼ぶ。
その後の警戒と九州支配
元はその後も日本へ軍を送る計画を立てたが、実行されなかった。
幕府は襲来が終わったとは考えず、異国警固番役を続けた。
1293年には博多に鎮西探題を置き、九州の御家人の統率と裁判を担わせた。
幕府の権限は九州でいっそう強まり、得宗を中心とする体制が固まっていった。
警備の負担が続いたことは、九州の御家人にとって重いものであった。
御家人の負担と恩賞
御家人は、幕府から所領を与えられる代わりに軍役を務めるという関係のもとで戦った。
しかし今回は他国からの襲来を防いだ戦いであり、新たに得られる土地がなかった。
幕府は没収地や神社の所領などを恩賞にあてたが、行き渡らせることはできなかった。
肥後の御家人である竹崎季長は、みずからの働きを訴えるため鎌倉へおもむき、恩賞を得た経緯を『蒙古襲来絵詞』に描かせた。
分割相続によって所領が細分化していたことも重なり、生活に困る御家人が増えた。
1297年、幕府は御家人が手放した所領を無償で取り戻させる永仁の徳政令を出したが、効果は続かなかった。
神国の意識
2度とも暴風雨が元軍の損害につながったことから、神仏の加護によって国が守られたという受け止めが広がった。
朝廷や寺社は戦いに際して祈祷を行っており、その効果を主張して恩賞を求めた。
のちの時代には、この経験が神国という考え方の根拠として語られることもあった。
一方で、石築地の構築や御家人の防戦が上陸を防いだ面も記録から知られている。
元寇の意義
元寇は、日本が国外の大きな軍事勢力と直接ぶつかった出来事であった。
幕府は御家人でない武士も動員できるようになり、九州に鎮西探題を置いて支配を広げた。
その一方で、恩賞を十分に与えられなかったことは、御恩と奉公で結ばれた関係を揺るがせた。
御家人の困窮と得宗への権限集中は、のちの鎌倉幕府の滅亡につながる要因として説明される。
対外関係の面では、正式な国交は結ばれなかったが、その後も商船や僧の往来は続いた。
1325年には、幕府が建長寺の再建費用を得るために元へ船を送っている。