日中共同声明とは、1972年9月29日に北京で田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来総理が署名した外交文書であり、日中両国の不正常な状態の終結と国交樹立を宣言したものである。
日本と中華人民共和国の政府間関係は、1949年の同国成立以来、正式には存在しなかったが、同日をもって正常化され、同時に台湾の中華民国政府との外交関係は事実上断絶した。
声明は、ニクソン訪中によって動き出した米中和解の流れと連動し、戦後日本のアジア外交における転換点となった。
国交正常化への背景
戦後の中国大陸では国共内戦の結果、1949年に中華人民共和国が成立し、蒋介石率いる中華民国政府は台湾へ移った。
冷戦下の日本は、1952年にサンフランシスコ平和条約発効と同日に台湾の中華民国と日華平和条約を結び、これを「中国の正統政府」として承認した。
一方、中華人民共和国とは民間貿易を細々と続けるにとどまり、政府間の正式な関係は存在しなかった。
1970年代に入ると、この構図を支えてきた国際環境が動く。
1971年7月、アメリカのニクソン大統領は翌年の自身の訪中を電撃的に発表した(ニクソン・ショック)。
同年10月の国連総会では、中華人民共和国に中国の代表権を認めるアルバニア決議が採択され、中華民国は国連から脱退した。
1972年2月にはニクソンが訪中し、米中接近が現実のものとなった。
日本は同盟国アメリカに先を越された形となり、佐藤栄作内閣末期には対中政策の見直しが避けられない状況となっていた。
1972年7月、自民党総裁選で福田赳夫を破った田中角栄が首相に就任すると、自民党内の親台湾派の反発を抱えながらも、日中国交正常化を内閣発足直後の最優先課題と位置づけた。
北京での交渉
1972年9月25日、田中首相は大平正芳外相、二階堂進官房長官らを伴って北京に到着した。
滞在は5日間に及び、周恩来総理との首脳会談は4回、毛沢東主席との会見も実現した。
交渉の焦点は、戦争責任の表現、台湾の扱い、戦争賠償の3点であった。
戦争責任については、田中が歓迎晩餐会で過去の戦争を踏まえた所感を述べた際、中国側はその表現を不十分と受け止め、文言の練り直しが続いた。
最終的に共同声明前文で、日本側が「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表明することで合意に至った。
台湾問題では、中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と承認しつつ、台湾の帰属について中国側の立場を「十分理解し、尊重する」と表現するという方式が採られた。
日華平和条約との整合や、自民党内の親台湾派への配慮もあり、直接の承認表現を避ける慎重な調整が行われた。
実務交渉を担ったのは大平外相と中国側の姫鵬飛外相であり、特に台湾条項の文言調整では大平の役割が大きかった。
賠償については、中国側が請求を放棄する方針を早い段階で示し、両国はこれを共同声明に明記することで合意した。
共同声明の内容
1972年9月29日に発表された日中共同声明は、前文と9項目の本文から成る。
要点は次のとおりである。
第一に、日中両国間の不正常な状態は声明発出の日に終了し、外交関係を樹立することが宣言された。
第二に、日本は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府と承認した。
第三に、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国側の立場を、日本は十分理解し尊重するとされた。
第四に、中華人民共和国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すると宣言した。
第五に、両国は主権・領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の5原則の上に、恒久的な平和友好関係を確立することで合意した。
第六に、両国はアジア・太平洋地域で覇権を求めず、第三国による覇権確立の試みにも反対するとされた(覇権条項)。
声明発表と同時に、大平外相は記者会見で日華平和条約が「存続の意義を失い、終了したものと認められる」との見解を表明し、台湾の中華民国との外交関係は事実上断絶した。
影響とその後
第一に、台湾との関係である。
1972年12月、民間交流の窓口として日本側に交流協会、台湾側に亜東関係協会が設立され、政府間関係に代わる実務関係を担う体制が整えられた。
経済・人的交流は維持されたが、正式な国交はその後も回復していない。
第二に、日中平和友好条約への接続である。
共同声明では平和友好条約の締結が合意されたが、覇権条項に対するソ連の反発などから交渉は難航し、最終的に1978年8月、福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約が締結された。
同条約により、共同声明の原則は法的拘束力を持つ条約として確認された。
第三に、経済交流の拡大である。
国交正常化により日中貿易は拡大し、1979年には大平正芳内閣のもとで対中ODA(政府開発援助、ODA=経済発展のために政府が行う資金協力)が開始された。
中国の改革開放政策と並行して、日本企業の対中投資・技術協力が本格化し、両国は世界有数の経済関係を築く基盤を得た。
第四に、現代に残る論点である。
歴史認識をめぐる議論、中国が領有権を主張する尖閣諸島をめぐる問題、台湾海峡情勢など、共同声明が直接の合意対象としなかった事項は、その後の日中関係において繰り返し焦点となってきた。
日中共同声明は、戦後日本のアジア外交における到達点であると同時に、両国関係の現代的な出発点として位置づけられる。