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鎌倉時代

執権政治

この記事の目次
かんたん要約

鎌倉幕府で、将軍を補佐する執権の職を北条氏が世襲し、政治の主導権を握った体制。

源氏の将軍が3代で絶えたのち、北条時政・義時が地位を固めた。

3代執権の北条泰時は連署と評定衆を置き、有力御家人による合議で政務を進める形を整えた。

のちに北条氏の家督である得宗へ権限が集まった。

執権という職

執権は、鎌倉幕府で将軍を補佐して政務をとりまとめた職である。

幕府の財政や一般政務を扱う政所の長官(別当)を務める立場から始まり、のちに幕府全体の政務を統括する地位となった。

初代の執権は、源頼朝の妻である北条政子の父、北条時政とされる。

以後この職は北条氏が代々受け継ぎ、北条氏の当主が幕府政治を主導する体制がつくられた。

将軍を補佐する職が世襲されて政治の中心となった点で、朝廷で摂政・関白が果たした役割と比べられることがある。

北条氏が地位を固めるまで

1199年に源頼朝が死去すると、18歳で家督を継いだ2代将軍の源頼家のもとで、有力御家人13人による合議制がとられた。

これは頼家が単独で訴訟を裁くことを控えさせ、宿老たちの合議で政務を決める仕組みであった。

1203年、北条時政は頼家の妻の父にあたる比企能員を滅ぼし、頼家を将軍の地位から退けて弟の源実朝を立てた。

時政はこのとき政所別当となり、幕府の政務を握った。

1205年、時政は後妻の牧の方とともに実朝を廃そうとしたとして伊豆へ退き、子の北条義時が跡を継いだ。

1213年、義時は侍所別当の和田義盛を滅ぼし(和田合戦)、政所と侍所という幕府の二つの中心機関の長官を兼ねた。

執権が政所別当と侍所別当を兼ねる形は、これ以後の慣例となった。

将軍の性格の変化

1219年、3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、頼朝の血を引く源氏の将軍は3代で途絶えた。

幕府は当初、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが、上皇はこれを認めなかった。

そこで摂関家から幼い三寅(のちの藤原頼経)を迎えており、これを摂家将軍という。

6代将軍からは皇族が迎えられ、皇族(親王)将軍と呼ばれる。

将軍は幕府の主として置かれ続けたが、実際の政務は執権と有力御家人の合議によって進められた。

御家人が忠誠を誓う相手は将軍であり、その将軍を補佐する立場から北条氏は政務を主導した。

承久の乱と執権の権限

1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が北条義時を追討する院宣を出し、幕府方と戦って敗れた(承久の乱)。

幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視し、上皇方から没収した所領には新たな地頭を任じた。

執権を中心とする幕府の権限は、東国だけでなく西国にも及ぶようになった。

与えられた所領をめぐる御家人どうしの争いも増え、幕府は裁判の仕組みを整える必要に迫られた。

北条泰時による制度の整備

1224年に義時が死去すると、その子の北条泰時が3代執権となった。

泰時は叔父の北条時房を連署に任じ、執権とともに幕府の文書へ署名して政務にあたる形を整えた。

1225年には評定衆を置き、有力御家人と実務にあたる官人による合議で政務や裁判を決める仕組みをつくった。

同じ年に北条政子が死去しており、頼朝以来の縁故にたよらない政治の形が求められていた。

1232年(貞永元年)には、御家人の所領争いを裁く基準として御成敗式目を定めた。

執権・連署・評定衆による合議は、以後の幕府政治の基本の形となった。

裁判制度の拡充

5代執権の北条時頼は、1247年に有力御家人の三浦泰村を滅ぼし(宝治合戦)、北条氏の地位をさらに固めた。

1249年、時頼は評定衆のもとに引付を置き、御家人の所領をめぐる訴訟の審理を専門に担当させた。

引付の設置により、増え続ける所領訴訟を以前より短い期間で処理できるようになった。

訴えを受け付けてから判決を下すまでの手続きが定められ、当事者の言い分を書面で三度やりとりさせる方式もとられた。

公平な裁判を掲げたことは、御家人が幕府に従う理由の一つとなった。

得宗への権力集中

北条氏の家督を継ぐ当主は得宗と呼ばれ、その地位は執権の職とは別に重みを持つようになった。

得宗の名は、義時の法名に由来するとされる。

8代執権の北条時宗のもとで元寇(1274年・1281年)に対応した幕府は、御家人でない武士も動員するなど権限を広げた。

一方で、得宗の家臣である御内人と、その筆頭である内管領が力を持つようになった。

1285年の霜月騒動では、有力御家人の安達泰盛が内管領の平頼綱に敗れた。

以後、評定の場よりも得宗の邸宅で開かれる寄合で重要な事柄が決まるようになり、こうした体制は得宗専制と呼ばれる。

諸国の守護職も北条氏一門が占める割合が高まり、幕府の要職は一族に集まった。

執権政治の意義

執権政治は、将軍個人の判断ではなく、執権を中心とする合議によって幕府を運営する体制であった。

御成敗式目・評定衆・引付は、いずれも御家人どうしの所領争いを裁く仕組みとして整えられた点で共通している。

これらの制度は室町幕府にも受け継がれ、武家が政治を担う際の土台となった。

他方で、北条氏の一族と御内人へ権限が集まるにつれ、他の御家人との間には不満が残った。

元寇のあとに恩賞となる土地が不足したことも重なり、御家人の不満は幕府の滅亡につながる要因の一つとなった。

鎌倉時代の政治を理解するうえでは、合議の制度が整えられた過程と、北条氏へ権限が集まった過程の両方を見る必要がある。