三河の小大名に生まれ、今川氏の人質から織田信長との同盟を経て自立。
豊臣秀吉に臣従したのち、関ヶ原の戦いに勝利して1603年に江戸幕府を開いた。
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度を定めて約260年続く幕藩体制の礎を築いた。
生い立ちと人質時代
徳川家康は、天文11年(1542)に三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主・松平広忠の子として生まれた。
当時の松平氏は、東の駿河を本拠とする今川氏と、西の尾張で勢力を伸ばす織田氏という二大勢力に挟まれた小大名にすぎなかった。
家康は幼少期、今川氏への人質として駿府(現在の静岡市)に送られ、長く今川義元のもとで過ごした。
永禄3年(1560)、今川義元が尾張への進軍中に織田信長の奇襲を受けて敗死する(桶狭間の戦い)。
これを機に家康は今川氏から自立し、本拠の岡崎城に戻って三河の支配を固めていった。
今川という後ろ盾を失った状況で、家康はどの勢力と結ぶかという判断を迫られることになる。
織田信長との同盟
自立した家康は、勢力を広げつつあった織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
この同盟は信長が本能寺で倒れるまで約20年にわたって維持され、戦国時代の同盟としては異例の長さであった。
家康は東方の今川氏・武田氏に備えながら三河から遠江へと領国を広げ、信長は西方の経略に専念できた。
両者の利害が一致した結果である。
この時期、家康は領内で起きた一向一揆(三河一向一揆)の鎮圧に苦しみながらも領国支配を強化し、信長との連合軍として武田氏との戦い(長篠の戦いなど)にも加わった。
信長との同盟関係を保ちつつ着実に地歩を固めたことが、後の飛躍の土台となった。
豊臣秀吉への臣従と関東移封
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が台頭する。
家康は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで秀吉と直接対決し、軍事的には引き分けに近い結果を得た。
しかし秀吉が全国統一を着実に進める中で、家康は最終的に秀吉に臣従する道を選んだ。
武力で対抗し続けるより、秀吉政権下で大名としての地位を確保する方が現実的だと判断したものと考えられている。
秀吉のもとで家康は有力大名となり、晩年の秀吉政権では五大老の筆頭格に位置づけられた。
一方で天正18年(1590)の小田原攻めの後、家康は旧来の領国(三河・遠江など)から関東へ移された(関東移封)。
これにより家康は江戸を本拠とし、約250万石ともいわれる広大な領地を得た。
中央から遠ざけられた面もあったが、結果として家康は秀吉の干渉を受けにくい独自の基盤を関東に築くことになった。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、幼い豊臣秀頼を支える諸大名の間で対立が表面化する。
五大老筆頭の家康と、秀吉の側近であった石田三成らとの対立が深まり、慶長5年(1600)、両者は全国の大名を二分する決戦に至った。
これが関ヶ原の戦いである。
家康を中心とする東軍は、三成らの西軍を一日の戦闘で破った。
この勝利によって家康は全国の大名に対する事実上の支配権を握り、戦後の領地の再配分を通じて、自らに従う大名を要地に配置していった。
関ヶ原の戦いは、豊臣政権内の主導権争いから、徳川氏による新たな全国支配の確立へと局面を転換させる画期となった。
江戸幕府の成立
慶長8年(1603)、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸(現在の東京)に幕府を開いた。
これが江戸幕府であり、以後約260年にわたる徳川氏の支配の出発点となった。
家康はわずか2年後の慶長10年(1605)、将軍職を子の徳川秀忠に譲った。
これは、将軍職が徳川氏によって世襲されることを内外に示すための措置であったと考えられている。
将軍職を退いた後も家康は大御所として実権を握り続け(大御所政治)、駿府を拠点に幕府の体制づくりを主導した。
大坂の陣と豊臣氏の滅亡
江戸幕府が成立した後も、大坂城には豊臣秀頼が依然として大きな存在感をもって残っていた。
徳川氏による全国支配を確実なものとするうえで、豊臣氏の処遇は最後の課題であった。
家康は慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌元和元年(1615)の大坂夏の陣によって豊臣氏を攻め、秀頼を滅ぼした。
大坂の陣によって、戦国時代以来続いた大規模な戦乱に終止符が打たれ、徳川氏による全国支配が固まった。
これ以降、国内で大名どうしが争う大きな戦いはほとんど起こらなくなり、長い平和の時代の基礎が定まった。
幕藩体制の礎
大坂の陣の直後、家康は元和元年(1615)に武家諸法度と禁中並公家諸法度を定めた。
武家諸法度は大名が守るべき規範を示して幕府による大名統制の枠組みをつくり、禁中並公家諸法度は天皇・公家の活動を規制して幕府と朝廷の関係を定めた。
これらは、将軍を頂点とし、各地の大名(藩)が領地を治める幕藩体制の骨格をなすものであった。
家康は元和2年(1616)に駿府で死去した。
死後、家康は久能山に葬られ、東照大権現として祀られた。
のちに日光にも勧請され、日光東照宮が成立した。
徳川家康個人の評価以上に重要なのは、その生涯が、戦国の動乱を終わらせて以後約260年続く江戸時代の出発点となった点である。
家康が築いた幕藩体制の枠組みは、徳川氏の長期にわたる支配と、近世日本の社会秩序を支える基盤となった。