672年、天智天皇の死後の皇位継承をめぐり、弟の大海人皇子と子の大友皇子が争った内乱。
大和・近江・美濃などを舞台に約1か月続き、勝利した大海人皇子は天武天皇として即位した。
天武天皇は皇族を政権の中枢に置き、八色の姓や律令編纂などの制度整備を進め、後の大宝律令へつながる基礎を築いた。
壬申の乱とは
壬申の乱は、672年に大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子との間で起きた内乱である。
大和・近江・美濃など畿内周辺の各地を戦場とし、古代の内乱としては特に規模が大きいものとされる。
背景
天智天皇は663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた後、防衛体制を固める中で667年に都を飛鳥から近江大津宮へ移し、翌年即位した。
天智天皇の下では、初の全国的戸籍とされる庚午年籍の編成など、律令国家の基礎となる政策が進められた。
『日本書紀』によれば、671年、病に伏した天智天皇は同母弟の大海人皇子に皇位を譲る意向を示したとされる。
大海人皇子はこれを辞退して出家し、吉野へ退いた。
大友皇子は同年に太政大臣へ任じられており、天智天皇の崩御後に近江朝廷を担った。
経緯
672年6月、大海人皇子は吉野を出て東国へ向かい、挙兵の準備を進めた。
伊賀・伊勢を経て美濃に入ると、安八磨郡(現在の岐阜県大垣市・池田町周辺)の兵を徴発し、東西を結ぶ不破道を封鎖して近江と東国の連絡を断った。
大友皇子側の軍勢が不破道を越えようとしたが大海人皇子側に阻まれ、以後の戦いで大海人皇子側が優位に立った。
高市皇子が率いる本隊は関ケ原周辺(野上)に本営を置き、玉倉部での戦いでは大友皇子側の奇襲を退けた。
大和では、三輪君高市麻呂・置始連菟らが率いる大海人皇子側の軍勢が、飛鳥の旧都を奪おうとする近江朝廷側の精鋭と桜井市の箸墓付近で戦い、これを退けた。
最終的に7月22日、近江の瀬田橋(現在の滋賀県大津市)付近での戦いで近江朝廷側が敗れ、大友皇子は自害した。
挙兵から約1か月で乱は終結した。
主要人物
- 大海人皇子(天武天皇)(生年不詳〜686年)— 天智天皇の同母弟。乱に勝利し即位した
- 大友皇子(648〜672年)— 天智天皇の子。太政大臣として近江朝廷を担ったが敗れた。明治時代に弘文天皇の追号が贈られた
- 高市皇子(654〜696年)— 大海人皇子の子。美濃方面で本隊を指揮した
- 天智天皇(626〜671年)— 大海人皇子の同母兄で、大友皇子の父。乱の前年に崩御した
その後
乱に勝利した大海人皇子は飛鳥へ戻り、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。
都は近江大津宮からふたたび飛鳥へ移された。
天武天皇は太政大臣や左右大臣を常置せず、皇族を政権の中枢に置く政治を進めた。
684年には氏族の序列を再編する八色の姓を定め、681年には律令の編纂を命じた。
その成果は持統天皇の689年に施行された飛鳥浄御原令に結びつき、701年の大宝律令へと受け継がれた。
まとめ
壬申の乱は、天智天皇の死後の皇位継承をめぐって大海人皇子と大友皇子が争い、大海人皇子が勝利した内乱である。
乱後に即位した天武天皇は皇族を政権の中枢に置き、氏族秩序や律令の整備を進めた。
これらの制度整備は、持統朝の飛鳥浄御原令を経て大宝律令へと受け継がれた。