治承・寿永の乱は、1180年(治承4年)の以仁王の挙兵から1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いまで約6年間続いた内乱である。
源頼朝・源義仲ら各地の武士が平氏政権に対して挙兵し、平氏は都落ちののち一ノ谷・屋島・壇ノ浦で敗れて滅んだ。
頼朝は内乱のなかで東国の支配を朝廷に認めさせ、守護・地頭を置く権限を得て、鎌倉幕府の土台を築いた。
治承・寿永の乱とは
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、1180年(治承4年)から1185年(文治元年)まで約6年間続いた内乱である。
源氏と平氏の戦いとして知られるため、「源平の争乱」「源平合戦」とも呼ばれる。
ただし実際には、源氏と平氏という2つの一族だけの戦いではなく、平清盛を中心とする平氏政権に対して、各地の武士や寺社、貴族が反発して起きた全国的な内乱であった。
内乱のなかで源頼朝(みなもとのよりとも)は東国の武士をまとめて鎌倉に拠点を築き、平氏を滅ぼしたのちに鎌倉幕府を成立させた。
この記事では、内乱の背景、1180年の挙兵から1185年の壇ノ浦の戦いまでの経過、そして内乱が後の時代に与えた影響を説明する。
背景:平氏政権への反発
平清盛は、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱に勝って朝廷での地位を高め、1167年に武士として初めて太政大臣となった。
平氏一門は高い官職と多くの知行国・荘園を手に入れ、清盛は娘の徳子(とくこ)を高倉天皇の后として、天皇家との結びつきを強めた。
しかし、官職や土地を平氏が独占するようになると、後白河法皇の近臣や、官職を得られない貴族、所領を奪われた寺社の不満が高まった。
1177年(治承元年)には後白河法皇の近臣が平氏打倒を計画した鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀が発覚し、法皇と清盛の関係は悪化した。
1179年(治承3年)11月、清盛は軍勢を率いて京都に入り、後白河法皇を鳥羽殿に閉じ込めて院政を止めた。
翌1180年2月には、徳子が生んだ皇子が3歳で安徳天皇として即位した。
こうして平氏は朝廷の実権を握ったが、武力で法皇を退けたことは、法皇に近い勢力や皇位を望めなくなった皇族の反発を招いた。
この反発が、内乱の直接のきっかけになる。
内乱の主な勢力
治承・寿永の乱では、平氏、後白河法皇の朝廷、東国の源頼朝、北陸から京都へ入った源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲)という4つの勢力が、対立と協力をくり返した。
図1は、この4つの勢力の関係を示したものである。
図1のとおり、後白河法皇は平氏と対立し、平氏を都から追い出した義仲とも対立した。
法皇は東国の頼朝と結び、頼朝は弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を派遣して義仲を討ち、続いて平氏を追討した。
つまり、内乱の勝敗は戦場での強さだけでなく、法皇(朝廷)との関係をどう築くかによっても左右された。
以下では、この関係が年ごとにどう変わっていったかを追う。
内乱の始まり(1180年)
以仁王の挙兵
1180年(治承4年)4月、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は、平氏打倒を呼びかける令旨(りょうじ)を各地の源氏に出した。
令旨とは、皇族が出す命令書のことである。
以仁王は安徳天皇の即位によって皇位につく望みを失っており、平氏に所領を奪われてもいた。
5月、以仁王は源頼政(みなもとのよりまさ)とともに挙兵したが、平氏の軍に追われ、宇治で頼政は自害し、以仁王も討たれた。
挙兵そのものは短期間で鎮圧されたが、令旨は各地の源氏に届き、平氏に不満を持つ武士が立ち上がるきっかけになった。
6月、清盛は都を福原(現在の神戸市兵庫区)へ移したが、貴族や寺社の反対が強く、11月には京都へ戻した。
源頼朝の挙兵と鎌倉入り
源頼朝は、平治の乱で敗れた源義朝(よしとも)の子で、1160年から伊豆に流されていた。
1180年8月、頼朝は以仁王の令旨を受けて挙兵し、伊豆国の目代(もくだい、国司の代理)であった山木兼隆(やまきかねたか)を討った。
しかし直後の石橋山(いしばしやま)の戦いで、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)らに敗れ、海を渡って安房(あわ、現在の千葉県南部)へ逃れた。
安房で頼朝は、千葉氏や上総氏など房総半島の武士を味方につけ、武蔵を経て10月に相模国の鎌倉へ入った。
鎌倉は、父の義朝が館を構えた土地であり、三方を山に、南を海に囲まれた守りやすい地形であった。
頼朝は鶴岡八幡宮を現在の場所に移し、大倉(おおくら)の地に御所を定めた。
11月には、御家人を統率する役所である侍所(さむらいどころ)を置き、和田義盛(わだよしもり)を長官の別当(べっとう)にした。
御家人(ごけにん)とは、頼朝と主従関係を結んだ武士のことである。
富士川の戦い
1180年10月、平氏は清盛の孫の平維盛(これもり)を大将とする追討軍を東国へ送った。
頼朝の軍は駿河国の富士川で追討軍と向かい合ったが、平氏軍は東国武士の勢いを前に戦わずに撤退した。
『平家物語』には、水鳥の羽音を敵の襲来と勘違いして平氏軍が逃げ出したという話が語られている。
これを富士川の戦いという。
このとき、奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた弟の義経が駆けつけ、頼朝と初めて対面したと伝えられる。
頼朝は追討軍を追って京都へ攻め上ることはせず、鎌倉へ戻って東国の支配を固めることを優先した。
義仲の挙兵と南都焼討
頼朝と同じころ、信濃国(現在の長野県)の木曽で育った源義仲も挙兵した。
義仲は頼朝のいとこにあたり、北陸道へ勢力を広げていった。
平氏は各地の反乱に対応するため、1180年12月、清盛の子の平重衡(しげひら)が、平氏に敵対した南都(奈良)の東大寺・興福寺を攻めた。
この戦いで東大寺の大仏殿や興福寺の堂塔が焼け落ち、平氏は寺社勢力からの反感をさらに強めた。
これを南都焼討(なんとやきうち)という。
清盛の死と戦いの停滞(1181〜1182年)
1181年(養和元年)閏2月、清盛は熱病にかかり、64歳で死去した。
平氏の指揮は清盛の子の宗盛(むねもり)が引き継いだが、一門をまとめる力は清盛に及ばなかった。
また、この年から翌年にかけて西日本を中心に大きな飢饉(養和の飢饉)が起こり、平氏方も源氏方も大規模な軍事行動をとりにくくなった。
頼朝はこの間に東国の武士の所領を認め、味方を増やして支配を固めた。
義仲は北陸で勢力を広げ、平氏方の武士を破っていった。
義仲の入京と平氏の都落ち(1183年)
倶利伽羅峠の戦い
1183年(寿永2年)、平氏は平維盛を大将とする大軍を北陸へ送り、義仲を討とうとした。
5月、越中国と加賀国の境にある砺波山(となみやま)の倶利伽羅峠(くりからとうげ、現在の富山県小矢部市と石川県津幡町の境)で、義仲の軍は平氏軍を夜襲して破った。
これを倶利伽羅峠の戦い、または砺波山の戦いという。
『源平盛衰記』には、義仲が牛の角にたいまつをつけて敵陣に突入させた「火牛の計」の話が伝えられているが、これは軍記物語の記述であり、史実かどうかは確かでない。
この敗北で平氏は軍の主力を失い、京都を守ることが難しくなった。
平氏の都落ち
義仲の軍が京都に迫ると、1183年7月、宗盛は安徳天皇と三種の神器を連れ、一門を率いて西国へ逃れた。
三種の神器(さんしゅのじんぎ)とは、鏡・剣・玉からなる、天皇の位を示す宝物である。
これを平氏の都落ち(みやこおち)という。
平氏はいったん九州へ向かったのち、讃岐国の屋島(やしま、現在の香川県高松市)を本拠にして、瀬戸内海の海上勢力を集めた。
京都に残った後白河法皇は、8月に安徳天皇の弟を後鳥羽天皇として即位させた。
これにより、京都と平氏方に2人の天皇が並び立つ状態になった。
寿永二年十月宣旨と義仲の孤立
京都へ入った義仲は、法皇や貴族との関係をうまく築けず、義仲の軍による京都での乱暴も貴族の反感を招いた。
法皇は東国の頼朝に接近した。
1183年10月、朝廷は頼朝に対し、東海道・東山道の荘園・公領を支配し、命令に従わない者を取り締まる権限を認めた。
これを寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)という。
宣旨(せんじ)とは、天皇の命令を伝える文書である。
頼朝が実力で築いた東国支配は、この宣旨によって朝廷から公式に認められた。
孤立した義仲は11月、法皇の御所である法住寺殿を攻めて法皇を閉じ込め、朝廷の実権を握ろうとした。
これを法住寺合戦という。
平氏の滅亡(1184〜1185年)
義仲の敗死
頼朝は、法皇の要請を受けて弟の範頼と義経を京都へ送った。
1184年(寿永3年)1月、義仲の軍は宇治川の防衛に失敗し、義仲は近江国の粟津(あわづ、現在の滋賀県大津市)で討たれた。
範頼と義経は法皇から平氏追討と三種の神器の奪還を命じられ、そのまま西へ向かった。
一ノ谷の戦い
平氏は勢力を立て直し、かつての拠点である摂津国の福原まで戻っていた。
1184年2月7日、範頼の軍が東の生田の森から、義経の軍が西の一ノ谷(現在の神戸市須磨区)から平氏の陣を攻めた。
『平家物語』では、義経が鵯越(ひよどりごえ)の崖を馬で駆け下りて平氏の背後を突いたと語られる。
平氏は多くの武将を失い、海上へ逃れて屋島へ戻った。
この戦いで平忠度(ただのり)や平敦盛(あつもり)が討たれ、平重衡は捕らえられた。
これを一ノ谷の戦いという。
同年10月、頼朝は鎌倉に公文所(くもんじょ)と問注所(もんちゅうじょ)を置き、政務と裁判のしくみを整えた。
屋島の戦い
1185年(元暦2年)2月、義経は暴風雨のなか少数の軍で四国へ渡り、屋島の平氏の本拠を陸側から奇襲した。
海からの攻撃を想定していた平氏は船で海上へ逃れ、四国の拠点を失った。
『平家物語』に語られる那須与一(なすのよいち)が船上の扇の的を射た話は、この屋島の戦いを舞台にしている。
壇ノ浦の戦い
1185年3月24日、長門国の壇ノ浦(だんのうら、現在の山口県下関市)の海上で、平氏と源氏の最後の戦いが行われた。
壇ノ浦は本州と九州の間の関門海峡にあり、潮の動きが速い海である。
戦いの前半は潮流に乗った平氏が優勢であったが、昼ごろに潮の向きが変わると源氏軍が押し返した。
敗れた平氏の武将は次々と海に身を投げ、清盛の妻の時子(二位尼)は8歳の安徳天皇を抱いて入水した。
三種の神器のうち鏡と玉は回収されたが、剣は海に沈んで失われた。
宗盛と徳子(建礼門院)は捕らえられ、徳子はのちに京都の大原で余生を送った。
この壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅び、約6年間の内乱は終わった。
主な戦いの一覧
表1は、治承・寿永の乱の主な戦いを時間順にまとめたものである。
| 年月 | 戦い(現在の地名) | 結果 |
|---|---|---|
| 1180年5月 | 以仁王・源頼政の挙兵(京都府宇治市) | 平氏が鎮圧。以仁王・頼政は敗死 |
| 1180年8月 | 石橋山の戦い(神奈川県小田原市) | 頼朝が敗れ、安房へ逃れる |
| 1180年10月 | 富士川の戦い(静岡県の富士川) | 平維盛の追討軍が戦わずに撤退 |
| 1183年5月 | 倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市・石川県津幡町) | 義仲が平維盛の軍を破る |
| 1184年1月 | 宇治川・粟津の戦い(京都府宇治市・滋賀県大津市) | 義仲が範頼・義経に敗れ戦死 |
| 1184年2月 | 一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市) | 平氏が敗れ、屋島へ退く |
| 1185年2月 | 屋島の戦い(香川県高松市) | 平氏が敗れ、海上へ逃れる |
| 1185年3月 | 壇ノ浦の戦い(山口県下関市) | 平氏が滅亡。安徳天皇が入水 |
表1のとおり、戦いの舞台は東国から北陸、京都、そして瀬戸内海を西へ移っていった。
平氏は西日本の海上交通を支えにして抵抗したが、陸と海の両方から追いつめられた。
内乱の結果と意義
守護・地頭の設置
平氏の滅亡後、頼朝と義経の関係は悪化した。
義経が頼朝の許しなく朝廷から官職を受けたことや、戦いの進め方をめぐる対立が原因であった。
1185年11月、頼朝は義経を捕らえることを名目にして、諸国に守護(しゅご)を、荘園や公領に地頭(じとう)を置く権限を朝廷に認めさせた。
守護は国ごとの軍事・警察を担い、地頭は土地の管理と年貢の徴収に関わった。
これによって頼朝の支配は東国を越えて全国に及ぶようになり、この年を鎌倉幕府の成立とみる考え方もある。
義経は奥州平泉の藤原氏を頼ったが、1189年に藤原泰衡(やすひら)に攻められて自害した。
頼朝は同年に奥州藤原氏を滅ぼし、1192年に征夷大将軍に任じられた。
武家政権の成立へ
治承・寿永の乱は、平氏政権を倒しただけでなく、政治のしくみそのものを変えた。
平氏は京都の朝廷のなかで官職と婚姻を通じて権力を握ったが、地方の武士を安定して組織するしくみを持たなかった。
これに対して頼朝は、内乱のなかで東国武士の所領を保障し、御家人との主従関係を土台に鎌倉で独自の政権を築いた。
頼朝が寿永二年十月宣旨や守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたことは、武士の政権が朝廷と並び立つ形で成立したことを意味する。
内乱に参加した東国の武士にとっても、この戦いは平氏方の国司や目代の支配から抜け出し、自分の土地の支配を頼朝に認めてもらう機会であった。
源氏と平氏の戦いという見方だけでは、この内乱の意味はとらえきれない。
まとめ
治承・寿永の乱は、1180年の以仁王の挙兵から1185年の壇ノ浦の戦いまで続いた内乱である。
平氏政権への反発を背景に、源頼朝が東国で、源義仲が北陸で挙兵し、1183年に平氏は都落ちした。
京都に入った義仲は後白河法皇と対立し、法皇と結んだ頼朝が範頼・義経を派遣して義仲を討ち、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。
頼朝は内乱のなかで寿永二年十月宣旨と守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、御家人との主従関係を土台にした鎌倉幕府を成立させた。