平安時代末期の武将・政治家(1118〜1181年)。
伊勢平氏の平忠盛の子として生まれ、保元の乱・平治の乱に勝って朝廷での地位を高め、1167年に武士として初めて太政大臣となった。
娘の徳子を高倉天皇の后とし、その子の安徳天皇を即位させて外祖父となる一方、大輪田泊を修築して日宋貿易を進めた。
1179年に後白河法皇の院政を止めたが、源頼朝らの挙兵が広がるなかで1181年に病死し、平氏は1185年に滅んだ。
平清盛とは
平清盛(1118〜1181年)は、平安時代末期の武将・政治家で、武士として初めて太政大臣(だいじょうだいじん)となった人物である。
伊勢平氏(いせへいし)の棟梁(とうりょう)である平忠盛の子として生まれ、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱に勝って、朝廷での地位を高めた。
一門を高い官職につけ、娘の徳子(とくこ)を高倉天皇の后として、その子の安徳天皇を即位させた。
また、瀬戸内海の航路と大輪田泊(おおわだのとまり)を整え、宋(そう)との貿易を進めた。
清盛を中心とする平氏の政治は「平氏政権」と呼ばれ、院政から鎌倉幕府へ向かう途中に位置づけられる。
生い立ちと伊勢平氏
清盛は1118年(永久6年)、平忠盛の長男として生まれた。
伊勢平氏は、桓武天皇の子孫を名のる桓武平氏の一流で、伊勢国(現在の三重県)を本拠に力を伸ばした武士の家である。
祖父の正盛と父の忠盛は、院政を行う白河上皇・鳥羽上皇に仕え、瀬戸内海の海賊を取り締まる役目や、西日本の国司の職を得て財力を蓄えた。
忠盛は1132年に武士として初めて内裏への昇殿を許され、清盛もその後を追って昇進を重ねた。
1146年に清盛は安芸守(あきのかみ)となり、瀬戸内海西部との結びつきを深めた。
安芸国の厳島神社(いつくしまじんじゃ)を篤く信仰したのは、この時期からである。
1153年に忠盛が死去すると、清盛が伊勢平氏の棟梁を継いだ。
保元・平治の乱と昇進
1156年の保元の乱で、清盛は後白河天皇方について勝利し、播磨守(はりまのかみ)に任じられた。
1159年の平治の乱では、熊野参詣から京都へ戻って藤原信頼・源義朝方を破った。
この2つの乱で、朝廷の武力を担う武士のなかで清盛の地位が抜きん出た。
1160年に清盛は参議となり、武士として初めて公卿(くぎょう)の列に加わった。
公卿とは、朝廷の政治を決める上級の貴族のことである。
1167年(仁安2年)には太政大臣に任じられた。
太政大臣は律令の官職のうち最高位で、それまで摂関家など限られた貴族だけがついていた。
清盛は数か月で太政大臣を辞し、翌1168年に病のため出家した。
出家後も清盛は「入道相国(にゅうどうしょうこく)」と呼ばれ、政治への影響力を持ち続けた。
平氏政権のしくみ
一門の官職と経済基盤
清盛の一門は、嫡男の重盛をはじめ多くが高い官職についた。
平氏は知行国(ちぎょうこく)と荘園を多く手に入れ、その収入を政治の基盤にした。
知行国とは、国司を推薦する権利と、その国の収入を得る権利を特定の人物に与えるしくみである。
『平家物語』には、平氏の知行国が日本の半分近くにおよび、荘園も多数あったと語られている。
これは軍記物語の表現であるが、平氏の勢力が広い範囲に及んだことを示している。
京都では、鴨川の東にある六波羅(ろくはら)に一門の邸宅を構えた。
天皇家との婚姻関係
清盛は、天皇家との婚姻関係を通じて政治の中心に近づいた。
妻である時子の妹の滋子(しげこ)は、後白河上皇との間に皇子をもうけ、その皇子が1168年に高倉天皇として即位した。
1171年、清盛は娘の徳子を高倉天皇のもとへ入内(じゅだい)させた。
入内とは、天皇の后として内裏に入ることである。
1178年に徳子と高倉天皇の間に皇子が生まれ、清盛は天皇の外祖父となる道を開いた。
図1は、清盛の妻の妹である滋子が後白河上皇との間に高倉天皇を生み、清盛の娘の徳子が高倉天皇との間に安徳天皇を生んだ関係を示している。
天皇の外祖父となって政治を動かす方法は、摂関政治で藤原氏が用いたものと同じである。
清盛は武士でありながら、貴族と同じ方法で朝廷内の地位を固めた点に特徴がある。
日宋貿易と福原
清盛は、宋との貿易にも力を入れた。
宋は当時の中国の王朝で、宋銭(そうせん)や陶磁器、書籍などが日本へ運ばれ、日本からは金、硫黄、木材などが輸出された。
清盛は現在の神戸市兵庫区にあたる福原(ふくはら)に別荘を構え、近くの港である大輪田泊を修築した。
大輪田泊は古代からの港で、清盛は波を防ぐ人工の島である経ヶ島(きょうがしま)を築き、大型の船が安全に入れるようにした。
1170年には後白河法皇を福原に招き、宋の商人と対面させたと伝わる。
宋の船はそれまで主に九州の博多に来ていたが、清盛は瀬戸内海を通って畿内の近くまで船を招き入れようとした。
日宋貿易で得た利益は平氏の財力を支え、輸入された宋銭は、のちの時代に貨幣が広く使われるきっかけになった。
清盛は、瀬戸内海の航路の安全を願って厳島神社を整え、1164年には一門で写した経典33巻を奉納した。
これが国宝「平家納経(へいけのうきょう)」である。
後白河法皇との対立
鹿ケ谷の陰謀
平氏が官職と土地を独占するようになると、後白河法皇の近臣や、官職を得られない貴族との対立が深まった。
1177年(治承元年)、京都東山の鹿ケ谷(ししがたに)で、後白河法皇の近臣らが平氏打倒を話し合ったことが発覚した。
これを鹿ケ谷の陰謀といい、清盛は関係者を処罰した。
このとき後白河法皇自身は処罰されなかったが、法皇と清盛の関係は悪化した。
治承三年の政変
1179年(治承3年)、嫡男の重盛が病死し、法皇が重盛の知行国を取り上げるなど、清盛の意向を無視する動きが続いた。
同年11月、清盛は福原から軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させた。
関白をはじめ法皇に近い貴族の官職を奪い、平氏に近い人物に替えた。
これを治承三年の政変という。
翌1180年2月、高倉天皇は徳子との間に生まれた皇子に譲位し、安徳天皇が即位した。
天皇の外祖父となった清盛は、朝廷の実権を握った。
ただし、院政を武力で止めたことは、後白河法皇に近い勢力や、平氏に不満を持つ寺社・武士の反発を強める結果にもなった。
源平の争乱と清盛の死
以仁王の挙兵と福原遷都
1180年5月、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を呼びかけ、源頼政とともに挙兵したが、宇治で敗れた。
しかし以仁王が出した命令(令旨)は各地の源氏に届き、平氏への反発が広がるきっかけになった。
同年6月、清盛は都を京都から福原へ移した。
これを福原遷都といい、その理由は寺社勢力の強い京都を離れ、日宋貿易の拠点に近い場所へ政治の中心を置くためと考えられている。
しかし貴族や寺社の反対は強く、同年8月に源頼朝が伊豆で、9月に源義仲が信濃で挙兵すると、清盛は11月に都を京都へ戻した。
12月には清盛の子の重衡が、平氏に敵対した南都(奈良)の東大寺・興福寺を攻め、大仏殿などを焼いた。
清盛の死と平氏の滅亡
1181年(治承5年)閏2月、清盛は熱病にかかり、京都で死去した。
64歳であった。
清盛の死後、平氏は宗盛が率いたが、1183年に源義仲に追われて京都を離れ、1185年の壇ノ浦の戦いで滅んだ。
安徳天皇は壇ノ浦で入水し、徳子は生き残って京都の大原で余生を送った。
平氏を滅ぼした勢力の中心となった源頼朝は、平氏とは異なり京都から離れた鎌倉に武家政権の拠点を置き、鎌倉幕府を開いた。
平清盛の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1118年 | 平忠盛の長男として生まれる |
| 1146年 | 安芸守となる |
| 1153年 | 忠盛の死去により伊勢平氏の棟梁を継ぐ |
| 1156年 | 保元の乱で後白河天皇方につき勝利 |
| 1159年 | 平治の乱で藤原信頼・源義朝方を破る |
| 1164年 | 厳島神社に平家納経を奉納 |
| 1167年 | 武士として初めて太政大臣となる |
| 1168年 | 出家。高倉天皇が即位 |
| 1171年 | 娘の徳子が高倉天皇のもとへ入内 |
| 1177年 | 鹿ケ谷の陰謀が発覚 |
| 1179年 | 治承三年の政変。後白河法皇を幽閉し院政を停止 |
| 1180年 | 安徳天皇が即位。以仁王・源頼朝らが挙兵。福原遷都と京都への還都 |
| 1181年 | 熱病により死去 |
| 1185年 | 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡 |
平清盛の歴史的意義
清盛は、武士が朝廷の官職と天皇家との婚姻を通じて政治の中心に立てることを初めて示した。
その方法は藤原氏の摂関政治と似ており、平氏政権は貴族政治の枠組みのなかで成り立っていた。
そのため平氏は、法皇や貴族、寺社と対立すると支えを失いやすく、地方の武士を安定して組織するしくみも十分ではなかった。
源頼朝が鎌倉に拠点を置き、御家人との主従関係を土台に幕府を築いたことは、平氏政権の経験をふまえたものと考えることができる。
一方、日宋貿易を進めて宋銭の流入を促したことは、その後の貨幣経済の広がりにつながった。
大輪田泊は現在の神戸港の前身であり、清盛の港湾整備は現代の都市にも痕跡を残している。
まとめ
平清盛は、保元・平治の乱を経て朝廷での地位を高め、1167年に武士として初めて太政大臣となった。
一門を高位高官につけ、娘の徳子を高倉天皇の后として安徳天皇を即位させ、日宋貿易と厳島神社の整備を進めた。
1179年には後白河法皇の院政を止めて実権を握ったが、以仁王や源頼朝の挙兵が続くなかで1181年に病死した。
清盛の政治は貴族の方法を用いた武家政権であり、そのあり方は鎌倉幕府と比べることで理解しやすい。