1974年、田中角栄首相の資産形成の過程や資金源の不透明さを月刊誌『文藝春秋』が報じた一連の報道と、それに端を発した政治不信を「金脈問題」と呼ぶ。
立花隆らによる調査報道は、戦後日本における本格的な政治家個人資産の解明として広い反響を呼び、同年12月の田中内閣総辞職につながる契機の一つとなった。
後のロッキード事件と並んで、戦後政治と金権体質を結びつけて論じる際の出発点となった事件である。
田中内閣と「列島改造」期の資金需要
1972年7月に成立した田中角栄内閣は、「日本列島改造論」を経済政策の柱に掲げ、新幹線・高速道路網の地方展開を構想した。
だがこの構想は、土地への投機を全国規模で誘発し、地価と物価の大幅な上昇を招いた。
1973年10月の第1次石油危機がこれに重なり、1974年には消費者物価上昇率が20%を超える狂乱物価の状況となった。
国民生活が圧迫されるなかで、政権への不満は次第に高まっていった。
派閥政治を支える資金の調達は、戦後保守政治の構造的課題であった。
田中は「数は力、力は金」と評される派閥運営の手腕で1972年の自民党総裁選を制したが、その資金源は公にされていなかった。
『文藝春秋』1974年11月号と立花隆「田中角栄研究」
1974年10月10日に発売された『文藝春秋』1974年11月号は、ジャーナリスト立花隆による「田中角栄研究——その金脈と人脈」と、児玉隆也による「淋しき越山会の女王」の2本を同時掲載した。
立花の論考は、登記簿・有価証券報告書など公開資料を丹念に突き合わせ、田中とその関係者が設立した複数の不動産会社(いわゆる「幽霊会社」)を経由した土地取引によって、多額の含み益が蓄積されていく仕組みを指摘した。
当初、国内の新聞・テレビは報道に慎重であった。
しかし10月22日、外国人記者クラブで田中が記者会見し、外国人記者からの追及を受けたことが報じられると、国内メディアも一斉に追随し、批判が広がった。
事実関係そのものよりも、首相という公職にある人物が私的な資産形成を進めていたという構図が、国民の不信感を広げた。
退陣への流れ
1974年7月の参議院議員通常選挙で、与党自由民主党は議席を減らし、参議院では与野党伯仲(保革伯仲)の状況となっていた。
これに金脈問題が加わり、田中内閣への求心力は大きく低下した。
11月以降、野党は国会で追及を強め、自民党内からも退陣論が出始めた。
1974年11月26日、田中は首相を辞任する意向を表明し、12月9日に内閣総辞職した。
後継の総裁選びは党内対立を回避するため、椎名悦三郎副総裁による裁定(いわゆる「椎名裁定」)に委ねられ、クリーンなイメージを持つ三木武夫が首相に就任した。
金脈問題が残したもの
第一に、政治資金の透明化に向けた制度改革を促した。
1975年には政治資金規正法が改正され、個人・企業献金の上限規制と収支報告の義務づけが強化された。
なお不十分との指摘も残ったが、政治資金を「私的領域」から「公的監視の対象」へと位置づけ直す転換点となった。
第二に、1976年に発覚したロッキード事件との連続性である。
金脈問題が田中の資金構造を世に示したのち、ロッキード事件が明らかになった。
ロッキード事件は米上院(チャーチ委員会)での証言を端緒とする別個の事件であり、両者は捜査上の直接の前提関係にはない。
それでも、戦後政治と金銭の関係を問う一連の流れとして受け止められた。
第三に、調査報道の確立である。
公文書・登記簿・財務資料を丹念に分析し、権力者の構造を明らかにする手法は、その後の戦後ジャーナリズムにおける一つの規範となった。