SUMMARY

徳島県出身の政治家であり、戦前から衆議院議員を務め、1955年の自民党結党に合流した。

金脈問題で退陣した田中角栄の後を継いで、自民党第7代総裁・第66代内閣総理大臣に就任した。

「クリーン三木」を掲げてロッキード事件では捜査への政治介入をしない姿勢を貫いた。

党内主流派による「三木おろし」を受け、1976年12月の総選挙敗北を機に退陣した。

政治家としての歩み

三木武夫は1907年(明治40年)、徳島県板野郡御所村(現・阿波市)に生まれた。

明治大学に学んだのち、1937年(昭和12年)、30歳で衆議院議員総選挙に無所属で当選し、以後通算19回の当選を重ねた。

戦時期、三木は1940年に成立した大政翼賛会の体制に距離を置き、1942年のいわゆる翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選した。

戦後の議員適格審査でも公職追放を免れ、戦後政治のスタート時点で議席を保持していた数少ない代議士の一人となった点が、その後の政治的立ち位置を支える基盤となった。

戦後は1947年(昭和22年)に協同民主党を経て国民協同党の書記長に就任、1950年には国民民主党、1952年には改進党の幹事長を歴任した。

1954年に日本民主党結成に参加し、1955年のいわゆる保守合同で自由民主党が結党されると、これに合流した。

自民党内では、運輸大臣・経済企画庁長官(石橋・岸内閣)、科学技術庁長官・郵政大臣(池田内閣)、通商産業大臣・外務大臣(佐藤内閣)、副総理・環境庁長官(田中内閣)など、政府の要職を歴任した。

とくに佐藤内閣の外相時代(1966〜68年)には、日韓基本条約後のアジア外交や沖縄返還交渉の初期段階に関与した。

「バルカン政治家」の立ち回り

三木は自民党内で必ずしも大規模な派閥(三木派、政策研究会)の領袖ではなかったが、派閥間の対立を巧みに調整し、重要な局面でキャスティングボートを握る立ち回りで知られた。

当時のジャーナリズムは、第一次世界大戦前後のバルカン半島になぞらえて、勢力均衡のなかで影響力を発揮するこうした政治家像を「バルカン政治家」(複雑な勢力関係の中で巧みに立ち回る政治家を指す当時の俗称)と呼んだ。

1956年の自民党総裁選では石橋湛山を支援して岸信介との競合を制し、1972年の総裁選では大平正芳・田中角栄と連携して福田赳夫を破り、田中内閣の成立に貢献した。

少数派閥を率いながらも、党内の最終局面で結果を左右する存在として認識されていた。

首相就任と椎名裁定

1974年10月に発覚した金脈問題により田中角栄首相は11月に退陣を表明したが、後継総裁の選出は難航した。

本命とされた福田赳夫と大平正芳が真っ向から対立し、総裁公選を行えば党分裂が現実味を帯びる情勢であった。

このため自民党は、党則上の選挙によらず、椎名悦三郎副総裁の裁定に後継選びを委ねた。

同年12月1日、椎名は記者団に「青天の霹靂」と表現される形で三木武夫を後継総裁として指名した。

この決定は「椎名裁定」と呼ばれ、福田・大平両派の正面衝突を回避するために、清廉なイメージを持ち、かつ少数派閥に基盤を置く三木を選ぶという、党内均衡の論理に基づくものであった。

1974年12月9日、三木内閣(第66代)が発足した。

組閣にあたっては副総理に福田赳夫、蔵相に大平正芳を据え、主要派閥に配慮した布陣を組んだ。

「クリーン三木」とロッキード事件

三木内閣は「対話と協調」「クリーン政治」を旗印に発足した。

田中時代の金権政治への批判が高まっていた状況下で、政治倫理の回復は内閣の中心的な政治課題であった。

1976年2月、米国上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社による日本政府高官への不正資金提供が明るみに出た(ロッキード事件)。

三木は同年2月の衆議院予算委員会で「真相を徹底的に究明する」と答弁し、3月にはフォード米大統領に資料提供を要請する親書を送付した。

同年7月、東京地検特捜部は外国為替及び外国貿易管理法違反容疑で田中角栄前首相を逮捕し、のちに受託収賄罪で起訴した。

現職経験のある与党最大派閥の領袖の逮捕という事態に、党内では事件処理を巡って三木への反発が強まった。

三木はそれでも捜査への政治介入を拒否し、検察の独立した判断を尊重する姿勢を維持した。

政治資金規正法と独占禁止法の改正

三木内閣は、金権政治批判への制度的応答として、二つの重要な法改正に取り組んだ。

第一に、1975年7月に成立した政治資金規正法の改正である。

それまで実質的に無制限であった企業・労組・団体献金に量的制限を導入し、収支報告の公開範囲を拡大した。

政党・政治家の資金調達に明文の上限を設けたことは、戦後の政治資金規制の起点として位置づけられる。

第二に、1977年6月に成立した独占禁止法の改正である(成立は三木退陣後の福田内閣下だが、立案・国会提出は三木内閣による)。

カルテルに対する課徴金制度の導入、構造的独占企業への企業分割命令規定の新設など、戦後初の本格的な独禁法強化となった。

狂乱物価下で問題化した石油カルテル事件への反省を制度に反映させたものであった。

いずれの改正でも三木は財界・党内主流派の強い抵抗に直面し、当初案からの後退を余儀なくされた部分もあったが、改革の方向性自体を政治アジェンダに据えた点で、その後の制度改革の出発点となった。

三木おろしと退陣

ロッキード事件の捜査が田中前首相の逮捕に至ったことで、田中派・大平派・福田派を中心とする党内主流派は、三木首相の続投に強く反発した。

1976年夏以降、これらの派閥は連携して三木の退陣を要求する動きを強め、いわゆる「三木おろし」と呼ばれる倒閣運動が展開された。

同年6月、河野洋平・田川誠一らが自民党を離党して新自由クラブを結成し、保守勢力の一角が崩れた。

党内では8月に挙党体制確立協議会(挙党協)が発足し、三木への退陣圧力は最高潮に達した。

三木は総裁公選規程の改正と任期満了までの続投を主張し、両院議員総会での退陣決議を回避した。

しかし1976年12月5日の衆議院議員総選挙で、自民党は公認候補の当選が249議席にとどまり、結党以来初めて選挙で単独過半数を割り込んだ(無所属当選者の追加公認でかろうじて過半数を回復した)。

三木は選挙結果の責任を取る形で同年12月に退陣を表明し、後継には福田赳夫が就任した。

評価と影響

第一に、戦後保守政治における異色性である。

少数派閥の領袖でありながら首相に就任し、党内主流派の圧力下でも捜査への政治介入をしない姿勢を貫いたことは、党人内閣としては例外的なものであった。

「クリーン三木」の語は、その後の自民党政治の倫理基準を語る際の参照点となった。

第二に、制度改革の先行例となった点である。

政治資金規正法の改正と独占禁止法改正への取り組みは、いずれも改革幅としては限定的であったが、それまで踏み込まれてこなかった領域に立法で対応しようとした点に特徴がある。

1994年の政治改革関連法や平成期の独占禁止法の強化改正も、こうした三木内閣期の取り組みを先行例の一つとして位置づけることができる。

第三に、派閥政治の限界を可視化した点である。

三木おろしは、首相であっても党内最大派閥の支持を欠けば政権運営が困難になるという、戦後自民党政治の構造を改めて浮かび上がらせた。

同時に、新自由クラブの結成は、自民党一党優位体制の動揺の最初の兆候となった。

退陣後も三木は衆議院議員として活動を続け、1988年11月、在職中に死去した。

当選19回・議員在職51年は、当時としては歴代最長クラスの記録であった。