神祇祭祀をつかさどる中臣氏の出身。
中大兄皇子とともに645年の乙巳の変を計画・実行し、蘇我氏本宗家を打倒した。
以後は内臣(うちつおみ)として大化改新を補佐し、近江朝廷の中枢を担った。
669年、死の直前に天智天皇から大織冠と「藤原」の姓を賜り、藤原氏の祖となった。
子の藤原不比等を通じて、藤原氏は律令国家の中枢を占める氏族へと発展する。
生い立ちと中臣氏
614年(推古天皇22年)、中臣御食子(みけこ)の子として生まれた。
初めは鎌子(かまこ)と名乗った。
中臣氏は神祇祭祀を担当する伝統氏族で、忌部氏とともに朝廷の祭祀運営に関わってきた。
仏教導入をめぐる崇仏・廃仏論争では、中臣氏は物部氏とともに廃仏側に立った。
物部氏滅亡後も中臣氏は祭祀氏族として生き残ったが、政界の中枢を占める氏族ではなかった。
鎌足はこの中で異例の出世を遂げる人物となる。
乙巳の変の計画と実行
蘇我蝦夷・入鹿父子の権勢が強まる中、鎌足は皇族の中で打倒蘇我に同調する者を探し、中大兄皇子に接近した。
両者が出会った場として、飛鳥寺西の蹴鞠の場で皇子の脱げた靴を鎌足が拾った逸話が『藤氏家伝』などに伝わる。
645年6月12日、鎌足は計画立案・参謀として乙巳の変を支え、蘇我入鹿暗殺の現場でも実行部隊の一翼を担った。
クーデターは成功し、蘇我本宗家は滅亡した。
内臣として改革を支える
変後、皇極天皇は譲位して孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となった。
鎌足は新設された内臣に任じられた。
内臣は太政官の外に置かれた皇太子の側近職であり、皇太子・中大兄皇子と一体となって改革の方向を定める役割を担った。
646年の改新の詔をはじめ、公地公民や地方制度・税制をめぐる改革方針など、大化改新の諸政策を実務面で支えた。
孝徳・斉明・天智の三代にわたって中大兄皇子の懐刀であり続けた。
663年の白村江敗戦後の防衛体制整備や、667年の近江大津宮遷都にも関与したとされる。
藤原姓と死
669年(天智天皇8年)10月、病に伏した鎌足のもとに天智天皇が見舞いに訪れ、冠位の最高位である大織冠と「藤原」の姓を賜った。
鎌足は翌日に56歳で死去した。
以後、彼の系統は藤原氏を名乗ることになる。
藤原氏の祖として
鎌足の子のうち、藤原不比等は天武・持統・文武・元明・元正の五朝にわたって政界の中枢を歩み、大宝律令(701年)・養老律令(718年編纂)の制定を主導した。
さらに娘の宮子を文武天皇の夫人、光明子を聖武天皇の皇后とすることで、天皇家との外戚関係の基礎を築いた。
不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)はそれぞれ南家・北家・式家・京家の祖となり、藤原氏は奈良時代以降の朝廷において支配的地位を占める氏族へと発展し、律令国家の中枢を担い続けた。
中臣鎌足はその出発点として位置づけられる。