田中角栄が1972年6月に発表した政策構想であり、全国に新幹線・高速道路網を整備し、25万人規模の地方都市群と工業の再配置によって、過密と過疎を同時に解消することを掲げた国土計画である。
同年7月に田中内閣が成立すると政府の経済政策の柱となったが、列島改造への期待や過剰な通貨供給を背景に土地投機が全国規模で広がって地価を大きく押し上げ、第1次石油危機が重なった狂乱物価のなかで、構想全体の全面展開は挫折した。
構想が生まれた背景
1960年代の高度経済成長は、太平洋ベルト地帯への産業と人口の集中を加速させた。
東京・大阪・名古屋の三大都市圏は住宅難・交通混雑・大気汚染といった過密問題を抱える一方、農村地域では過疎化と若年層の流出が進行し、両者の格差は社会問題として認識されるようになっていた。
公害問題への対応も急務であった。
1967年の公害対策基本法、1970年のいわゆる公害国会を経て、工業の地方分散化や土地利用の見直しは、政治的にも避けて通れない課題となっていた。
1972年6月20日、当時通商産業大臣であった田中角栄は、自民党総裁選を直前に控えて『日本列島改造論』を日刊工業新聞社から刊行した。
「都市集中の弊害の解消、過疎の解消、公害対策、福祉の充実」を副題に掲げ、国土全体を一つの単位として再設計する大規模な公共投資構想を打ち出した。
同書は90万部を超えるベストセラーとなり、田中は同年7月の総裁選で大平正芳・三木武夫らと連携して佐藤栄作が後継に推した福田赳夫を破り、内閣を発足させた。
構想の内容
列島改造論の中核は、交通網の整備と工業の再配置による国土の均衡発展であった。
第一に、全国新幹線網の建設である。
1970年成立の全国新幹線鉄道整備法を前提に、約9,000kmの新幹線網を整備し、東京から札幌・鹿児島まで日帰り圏とする構想が示された。
第二に、高速道路網の全国展開である。
約1万kmの高速自動車国道を整備し、本州四国連絡橋(後の児島・坂出ルート等)も含めて列島各地の連結を強めることが想定された。
第三に、25万都市群構想である。
人口25万人規模の地方中核都市を全国に育成し、東京・大阪への一極集中を緩和する。
同時に、工業の地方再配置を進め、太平洋ベルトに偏在する重化学工業を日本海側・北海道・東北・南九州へ分散させる方針が示された。
これを具体化する立法として、1972年に工業再配置促進法が制定された。
第四に、国土行政と土地制度の整備である。
国土全体を一元的に計画する行政機構として、1974年に国土庁が設置された。
また同年、国土利用計画法が制定されたが、これは土地利用基本計画と地価規制を柱とし、列島改造論の公表後に進んだ地価高騰や乱開発への対処という性格が強い。
構想そのものを実現する立法というより、その副作用を抑える制度であった点に留意が必要である。
政策化と田中内閣
1972年7月に成立した田中内閣は、列島改造路線を経済政策の柱に据えた。
1973年度予算では公共事業費が前年比約32%増となり、地方への財政移転が大幅に拡大した。
しかし、列島改造への期待に過剰な通貨供給(過剰流動性)も加わって、全国各地で土地買い占めが広がった。
新幹線・高速道路の予定地、工業再配置候補地、25万都市の候補地として名指しされた地域の地価は大きく上昇し、不動産会社・商社・個人投資家が競って土地を取得した。
1972年から1973年にかけて、全国の地価上昇率は年30%を超え、地方の宅地・農地でも倍以上に上昇する地域が相次いだ。
物価全体も連動して上昇した。
1973年に入ると消費者物価上昇率は10%を超え、田中内閣は「日本列島改造」と物価安定の両立に苦慮することになった。
構想の挫折
1973年10月、第4次中東戦争を契機に第1次石油危機が発生した。
原油価格は約4倍に上昇し、エネルギーと原材料を中東に依存していた日本経済は大きな打撃を受けた。
これに列島改造による地価高騰が重なり、1974年の消費者物価上昇率は20%を超えた(狂乱物価)。
田中内閣は1973年末から1974年にかけて、列島改造路線から総需要抑制策へと事実上の路線転換を行った。
公定歩合の引き上げ、公共投資の繰り延べ、国土利用計画法による地価規制が次々と打ち出され、列島改造の積極投資路線は大きく縮小した。
1974年には戦後初のマイナス成長を記録し、高度経済成長は終焉した。
1974年7月の参議院議員通常選挙で自民党は議席を減らし、続いて10月に発覚した金脈問題が政権を直撃した。
同年12月、田中角栄は内閣総辞職に追い込まれ、列島改造路線は政治的にも事実上凍結された。
列島改造論が残したもの
第一に、交通インフラ整備の加速である。
山陽新幹線(1975年全線開業)、東北・上越新幹線(1982年開業)、本州四国連絡橋などは、いずれも列島改造論の刊行前から計画・着工が進められていた事業であり、構想が生み出したものではない。
ただし列島改造論は、これらの大規模公共事業を政治的に強く後押しし、整備新幹線をはじめとする全国的な交通網整備の機運を高めた。
第二に、国土利用法制の確立である。
国土利用計画法は土地取引の届出制と地価規制の根拠となり、日本における土地利用政策の基本法として現在も機能している。
国土庁は2001年の中央省庁再編で国土交通省に統合されたが、国土全体を一体的に計画する行政の枠組みは継承された。
第三に、地域振興をめぐる問題意識を提起した点である。
25万都市群構想そのものは挫折したが、過密と過疎を一体的に解決するという問題設定は、その後の地方拠点都市構想や地方創生政策の議論にも共通して見られる。
第四に、土地投機への警鐘である。
構想と地価高騰の連鎖は、その後のバブル経済期の地価高騰や、平成以降の土地税制改革を考えるうえで、繰り返し参照される歴史的事例となった。