SUMMARY

佐藤栄作の長期政権を継いで1972年に成立した内閣。

田中角栄が第64・65代内閣総理大臣として組織した第1次・第2次の内閣で、総裁選で福田赳夫を破り「決断と実行」を掲げて高支持率で発足し、日中共同声明による国交正常化を実現、日本列島改造論を看板政策とした。

しかし改造ブームと第1次石油危機による狂乱物価で支持率が低下し、1974年の金脈問題を機に同年12月に退陣した。

成立 — 角福戦争と「決断と実行」

1972年(昭和47年)7月、約7年8か月に及んだ佐藤栄作の退陣表明を受け、後継の自民党総裁を選ぶ総裁選挙が行われた。

中心となったのは、佐藤の後継と目された福田赳夫と、佐藤内閣で通商産業大臣を務めていた田中角栄である。

両者の争いは、のちに「角福戦争」と呼ばれた。

田中は大平正芳・三木武夫らの派閥と連携し、決選投票で福田を破って自民党第6代総裁に選出され、第64代内閣総理大臣に就任した。

高等小学校卒で土木建築業から身を起こした田中の経歴は「庶民宰相」「今太閤」として報じられ、発足当初の内閣支持率は60%を超える高水準を記録した。

田中は「決断と実行」をスローガンに掲げ、官僚機構を動かす政策遂行力を前面に押し出した。

同年12月の総選挙を経て第2次田中内閣が発足し、政権は1974年12月までおよそ2年半続いた。

内閣の主要政策

第一に、日中国交正常化である。

1972年9月、田中は北京を訪問し、周恩来首相との会談を経て日中共同声明に調印した。

これにより日本と中華人民共和国の国交が正常化され、戦後外交の大きな転換点となった(詳細は関連記事を参照)。

第二に、日本列島改造論である。

田中は首相就任前に著書『日本列島改造論』を発表し、高速道路・新幹線などの交通網整備と工業の地方分散によって、都市の過密と地方の過疎を同時に解消することを構想していた。

これを内閣の看板政策に据えた(詳細は関連記事を参照)。

第三に、社会保障の拡充である。

1973年は老人医療費の無料化、健康保険における家族給付の引き上げ、年金額の大幅引き上げと物価スライド制の導入などが相次いで実施され、「福祉元年」と呼ばれた。

つまずき — インフレと石油危機

列島改造論を背景に、全国で土地の先行取得や開発期待が広がり、地価が急騰した。

過剰な投機的需要は物価全般を押し上げ、内閣発足から1年余りで経済政策の課題はインフレ抑制へと移っていった。

そこへ1973年10月、第4次中東戦争を機に第1次石油危機(オイルショック)が発生した。

原油価格の高騰は国内物価をさらに押し上げ、消費者物価上昇率が年20%を超える狂乱物価と呼ばれる状況を生んだ(詳細は関連記事を参照)。

政府はインフレ抑制のため総需要抑制策へ転換し、列島改造政策は事実上凍結された。

物価高と経済の混乱を受けて内閣支持率は低下し、政権の求心力は次第に衰えていった。

退陣 — 金脈問題

1974年(昭和49年)7月の参議院選挙で自民党が苦戦するなか、同年10月、月刊誌『文藝春秋』が田中の資産形成の過程を取り上げた。

土地取引や関連企業を通じた蓄財の手法が問われたこの一連の問題は、金脈問題と呼ばれた(詳細は関連記事を参照)。

金脈問題への批判の高まりを受け、田中は1974年11月に退陣を表明し、同年12月9日に内閣は総辞職した。

後継には、椎名悦三郎副総裁の裁定によって三木武夫が指名され、三木内閣が発足した。

なお、田中が受託収賄罪に問われたロッキード事件は、内閣総辞職後の1976年に表面化したものであり、田中内閣在任中の出来事ではない。